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金子兜太選海程秀句鑑賞 430号(2007年2・3月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2007/9/26
疣むしりいまさら腰の括れなど
麻生圭祐子 愛知

 疣むしりとはカマキリのことであるが、この句の場合この言い方が面白いのではないか。軽く自嘲的自虐的な言い放つ気持ちよさとそれを楽しんでいるユーモアがある。


2

鑑賞日 2007/9/28
サシバ渡ると未明とび出す吾の可笑しき
阿部一葉 宮崎

 「五月雨に鳰の浮巣を見にゆかん 芭蕉」の現代版である。現代版であるからもっと明るく、もっと軽快である。芭蕉のように構えてなく、ふと人間とは自分とは可笑しいものだと気が付いたという俳諧がある。芭蕉の句が重いのに対してこの句はいわば軽みである。気持ちが良くそして温みがある。


3

鑑賞日 2007/9/29
跪く空蝉の鈴生りの木に
糸山由紀子 長崎

 作者が長崎の人ということでどうしても原爆ということを想ってしまう。「空蝉の鈴生りの木」ということからの連想でそう想うのは間違いないのではないか。この表現が上手いという言い方は失礼なほど重いテーマであるが、やはり上手くてそして真実味がある。


4

鑑賞日 2007/9/30
初野分眷属ふっと山を見る
井上湖子 群馬

 わたしたちの源はそもそも野生である。「初野分」に出会った時にふっとそういうことを思い、ある種の懐かしさがやって来たのではなかろうか。また「眷属ふっと山を見」るということで、この眷属は遠い昔山に由来した眷属であるというような土俗的な雰囲気もある。


5

鑑賞日2007/10/01
雨樋に草伸びあがる秋思かな
今福和子 鹿児島

 「雨樋に草伸びあがる」ということと「秋思」ということの配合。この配合を関連とみるか、対比とみるか、あるいは並列とみるかによって様々な思いが含蓄され得る。「雨樋に草伸びあがる」ような「秋思」とも取れるし、「雨樋に草伸びあがる」という活き活きとした自然現象に対して愚かにも人間は「秋思」しているというようにも取れる。しかし一番すっきりしているのは、自分はもの思いにふけっている、ふと見ると雨樋に草が伸びあがっている、という単なる並列とみるのがいい。


6

鑑賞日2007/10/02
杖をもって酔芙蓉打つ老境なり
大口元通 愛知

 感じとしては、艶があり華がありどこか自分自身も酔っている老境という感じである。一般的な老境ということとは反するようなまだまだエネルギーも油もある生々しい老境という感じであるとともに、解脱し枯れた趣を持っていながら闊達であるという禅者のような風貌のようなものも見えてくる。不思議な艶のある句である。


7

鑑賞日2007/10/03
鵲の未明のコーリアわれの巡礼
岡崎万寿 東京

 「コーリア」という言い方が相応しいのではないか。これを「韓国」だとか「朝鮮」だとかにしたら味が落ちてしまう。コーリアという言葉には国制や権力の囲いである国家などに関係ないその地方の自然や民俗が見えてくる雰囲気がある。だからこそ「鵲」という自然物や「巡礼」という一つの普遍的な人間の在り方がより一層響いてくるのではないだろうか。


8

鑑賞日2007/10/04
流されし風に噛みつき鬼ヤンマ
小暮洗葦 新潟

 「噛みつき」というのがいかにも鬼ヤンマの風情である。鬼ヤンマの姿がくっきりと見えてくる。そしてどことなく作者自身の肖像が重なってくる。この風は俳句界の流れであろうか。あるいは世間の風潮のようなものであろうか。とにかくそれに噛みついている気概が感じられる


9

鑑賞日2007/10/05
霧に橋影橋に人影かなり濃い
加川憲一 北海道

 はじめは霧の中に橋の影がぼーっと見える。やがてその橋の上の人影もだんだんはっきり見えてくる、というような例えば映画の一カットのような雰囲気から始まって「かなり濃い」というこの雰囲気を破るような口語的日常語的な言い方で終る。この「かなり濃い」が私にはしっくりと響いてこないのであるが・・・


10

鑑賞日2007/10/06
咳一つ山を南に生活あり
加地桂策 愛媛

 〈生活〉は[たつき]とルビ

 山村だろうか。静かな場所である。誰かいるのだろうか。咳が一つ聞えた。たしかに誰かいてそして生活があるに違いない。こういう場面はどこかで私も経験したことがあるような気がする。そしてある感銘を受けた覚えがある。そんな場面を簡潔に描ききっている。あるいはもしかしたらこれは作者自身の生の一場面ということもありうる。そうだとしたら自分の生を噛みしめている、自分の生を客観視してしかもそういう生に誇りを持っているという一つの主張がある気がする。


11

鑑賞日2007/10/07
山上は焦げ臭きかな山楝蛇
加藤青女 埼玉

 どうしてもはっきりとは掴みにくい混沌としたものを感じる。現代の人間精神の反映かもしれないし、現代という時代そのものの状況の反映かもしれないなどと思う。掴み所がなく落ち着き所がなく、そして蛇の焦げたような匂いがする。何もかもが登り詰めて極まったような時代の悪夢のようでもある。私の解釈が混沌として掴み所がないように今の時代は掴み所がない。降参である。


12

鑑賞日2007/10/08
青無花果無言館には窓がない
川崎久美子 東京

 上田市のホームページに「無言館は窪島誠一郎氏により、信濃デッサン館の分館として平成9年に開館した美術館です。第二次世界大戦中、志半ばで戦場に散った画学生たちの残した絵画や作品、イーゼルなどの愛用品を収蔵、展示しています。」とある。
 実際に「青無花果」が無言館の側にあったのかどうかは解らないが、この「青無花果」が戦死した画学生を象徴している。また「窓がない」というのもこれは事実そうなのであろうが、やはりこの戦死した画学生達の心の有り様や、あるいは戦争が人間の精神を束縛してしまうという事実を暗示しているようである。


13

鑑賞日2007/10/09
物零しては笑ます妻あり亥の年も
上林 裕 東京

 想像して鑑賞するよりほかはないが、この妻は病弱の妻である。認知症のようなものかもしれない。どんな状態の妻であれ、生きて側に居てくれることが嬉しいというようなことではないだろうか。今年は亥年である。今年も妻は生きて側に居てくれる。


14

鑑賞日2007/10/10
最上川鹿ひとまたぎ夢の中
北村歌子 埼玉

 夢判断をしたくなるような若々しい楽しい夢である。「あなたはエネルギーに満ちていますね。征服欲もありまた性的な欲求も強い。またロマンチストで自信もある」などと分析されるかもしれない。まあこれは私が適当に並べた言葉なのであるが、句の雰囲気としてはそんな感じがするからである。


15

鑑賞日2007/10/11
威嚇かな紅葉の中に針葉樹
小林まさる 群馬

 うん、そんな感じがするする。「威嚇かな」とはなかなか言えない。紅葉の中の針葉樹を見た時に私達が感じているが見過ごしている言葉の中の一つを探り出した。そのものの感じを表す正確な言葉を見つけると、そのものが眼前にあるような景色が自ずから読む者には見えてくる。


16

鑑賞日2007/10/12
旧友よ枯野の闇は圧巻なり
佐々木昇一 秋田

 過去に多くの時を共有した旧友。そしてそれぞれが違う道を歩んできた。経験もそれぞ違うものを得て来ている。その旧友に再びまみえた時に、自分の経験の中の感銘を受けたものを語りたくなるというのはよくあることである。またそういうふうに語りたくなるというのがこの旧友が心をゆるした友であるということの証拠でもある。そしてこの句の場合その語りたくなった内容は「枯野の闇は圧巻」であるということである。このことからも作者とこの友人の関係の内面的な深さが感じられる。


17

鑑賞日2007/10/12
熊の死を寝物語に霜夜更く
佐藤臥牛城 岩手

 私の住んでいるところでも昨今いろいろな動物が出現する。実は今しがた猿を追い払ってきたところである。わが家の茄子畑にやってきたからである。猿は何でも食う。大好物のトウモロコシからはじまって茄子や葱にいたるまで殆どの野菜は狙われる。わが家の被害は今のところ猿だけであるが、熊や鹿や猪なども出没しているらしい。村人の会合などに行くと最近は必ずといっていいほど、この動物達の話題が出る。猿などは追っ払えばいいのであるが熊などは最終的には殺さなければならない場合もある。この句一見民和風の昔語りの雰囲気があるが、現代のことでもある。


18

鑑賞日2007/10/13
昼夜思考す水の乱調に似たり
鮫島康子 福岡

 思考というのは人間にとっては道具である。必要な時には使い、必要でない時には傍らに置いておくべきである。これが健康な在り方なのであるが、時には思考(道具)の方が横暴になって人間を振り回してくることがある。ノイローゼの始まりともなる。作者はこのあたりのことをよく心得ているに違いない。「昼夜思考す」というのはもう思考(道具)が支配してきている兆候である。これを作者は「水の乱調に似たり」と客観視している。


19

鑑賞日2007/10/14
夜がそこにきて生きもののように月
清水喜美子 茨城

 なまめかしく艶がある。この世界は生きものである。そして昼が男性だとすれば夜は女性である。太陽が男性だとすれば月は女性である。「夜がそこにきて」というさりげない導入部がこのアニミズムの感覚に引き込む。


20

鑑賞日2007/10/15
わたしを叩く鳥いてわたしの声甲高く
白井重之 富山

 啓示的な夢の中の出来事と考えれば理解しやすい。句全体が自分の中での啓示的な瞬間を物語っているようであるし、またその出来事の全体を眺めている自分もいる。私達は人生の中でたくさんの啓示を受けそしてそのことが私達の人生を豊かなものに導いてくれるのであるが、またそれら物事の全体が夢であるという認識もある。


21

鑑賞日2007/10/16
鮭の鼻っぺコリコリ美味い日本海
瀬戸 密 北海道

 氷頭鱠(ひずなます)のことであろう。鮭の頭の軟骨をうすく切ってなますにしたものである。酒の肴などにはうってつけの美味いものである。それを「鮭の鼻っぺコリコリ美味い」と戯けたのが味噌である。うきうきした気分がある。日本海への旅の出来事であろうか。


22

鑑賞日2007/10/17
ピノキオは未だ木の鼻小鳥来る
高木一惠 千葉

 一句全体に様々な要素が混在している。メルヘン的なもの、木の擬人化的なもの、自画像的なもの、そして小鳥がやって来た嬉しさ。可愛らしく、そして楽しい一品である。


23

鑑賞日2007/10/18
ロバに帽子冥王星の祀りです
高橋たねお 兵庫

 今日は冥王星の祀りです。広場には人々が集まって来ています。美しい飾りを付けた帽子をかぶったロバもいます・・・というような童話と言ったらいいだろうか、そういう雰囲気の世界が覗ける。


24

鑑賞日2007/10/19
無造作に父水仙を病む母に
高橋総子 埼玉

 日本男児の愛情表現である。最初、ある年代より上の、と言おうと思ったがこれは現在でも変わっていないのではないかと思い直した。欧米では「愛している」などと簡単に言う。実際に愛していなくても言う。ひいき目に見て、愛していると思って言う。そのように言えば、そういう状態が起るかのように期待しているのかも知れない。違う例で言えば、「神よ」などと言う。神を知っていようがいまいがかまわない。ヨハネによる福音書の冒頭に「初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。」とあるが、つまりこのような西欧人の体質が、言葉すなわち実体であるという錯覚を産んでいるのではないだろうか。「神よ」と言えばそこに神が居る。「愛している」と言えば愛している、ということである。一方日本人はそれ程言葉そのものを信じてはいないのではなかろうか。「愛している」などと言うのは照れくさい。何故照れくさいかというと、何となく嘘くさいからである。言葉そのものは日本人にとって嘘くさいのではないだろうか。日本人は行間を読むなどと言うが、これは言葉そのものを読むのではなく、言葉の間に隠された真実を読もうとしているということである。〈切れ〉の空間を読む、という特徴の強い俳句においてはこの行間を読む、行間に真意を置くという特徴は特に色濃くあるのではないだろうか。


25

鑑賞日2007/10/20
雁行や町の鍛冶屋の兄おとと
舘岡誠二 秋田

 雰囲気がある。庶民詩、あるいは短編小説のような雰囲気。時代を少しさかのぼった懐かしい物語である。


26

鑑賞日2007/10/21
いじめなしとは言わせぬぞ穴惑い
中尾和夫 宮崎

 「いじめ」という現象が今の日本の社会では通常化している。どこに持って行ったらいいか解らない鬱憤がいじめという形で現れてくるのではなかろうか。この日本人の心の状態がすなわち「穴惑い」であるような気がする。また、学校などでいじめによる自殺などがあると学校側や教育委員会の面々が記者会見などで「いじめは無かった」「いじめとは認識していなかった」などと言い訳して、いかにも潔くないのであるが、この人達の状態がすなわち「穴惑い」の状態であるような気もする。


27

鑑賞日2007/10/22
引退のピエロに重き夜食かな
中島偉夫 宮崎

 上手いなあと思う。印象明瞭な絵柄がすぐ浮かぶ。モノクロあるいはセピア色の物語性のある絵というか小説風の絵というかそんな絵である。古ぼけた台所のような所で夜食を取っている引退したピエロの姿。さらに味わっていると、このピエロというのは実は「ピエロのような自分」ということかも知れないと思えてくる。「重き夜食」という言葉がしみじみと伝わって来る。


28

鑑賞日2007/10/23
満月の着水音あり歯痛あり
橋本和子 長崎

 「満月の着水音」というどちらかといえばハッとするような美しいものと、「歯痛」というどちらかといえば嫌なものの配合である。俳句では全く関係ないと思われるような二物の配合が上手くいった時、その句は優れていると言える。その時には俳諧の本質である(と私が思っている)二元論的なものから一元論的なものへの美的統合があるからである。上手くゆくというのはこの美的統合を読者に感じさせることができるか否かということにあるわけであるが、それは読者の能力にもよるのであるが、初心者である私にはそれがなかなか難しいことが多い。この金子兜太選の海程秀句を読むということは、俳句を読むということの受容能力を鍛えるという意味がある。常に四苦八苦しているわけであるが、しかしそれなりの醍醐味があるのである。この醍醐味は、繰り返せば、二元論的なものの見方から一元論的なものの見方への意識の変容ということである。
 さてこの句の場合、一見何の関係もないように見える二つの事物は統合されているだろうか。「満月の着水音」にも「歯痛」にもどちらにもハッとするような鋭い痛みがあり、またハッとするような美しさがあると、作者はいわば超意識の中で言っている、と私は考えたい。俳諧の一つの本質を考察する上でこの句は一つのサンプルになる気がする。


29

鑑賞日2007/10/24
きらりきらりとひねもす薪を割る農夫
藤野 武 東京

 実に好きな句である。私自身が農夫のはしくれだと思っているからかもしれないが、こういう風な在り方は憧れるところである。仕事とそれを取り巻く自然と時間の流れが一体であるような在り方。農夫と薪を割る行為と割られる薪との区別は既に無く、ただ「ひねもすきらりきらり」とそこに「在る」のである。またこの句は蕪村の「春の海ひねもすのたりのたりかな」を下敷きにしているが、この蕪村句の〈現在という時間の永遠性〉を踏まえた上でさらに人事と自然を統合しているという意味で蕪村句を凌駕していると言える。


30

鑑賞日2007/10/25
牡蠣啜る鼻から抜けるフランス語
堀真知子 愛知

 言語というのは不思議なものである。特にその発音というのは不思議である。それぞれの国によって千差万別である。例えばフランス語はどうしてあのように鼻から抜けるような音を出すのであろうか。まるで啜った牡蠣を鼻から出しているようなふうではないか。この「鼻から抜ける」は両掛かりの言葉である。「牡蠣すする鼻から抜ける」でもあるし「鼻から抜けるフランス語」でもあろう。そんなこんなを考えているうちにフランソワーズ・モレシャンの顔などが思い浮かんで来る。洒落た滑稽感のある句である。


31

鑑賞日2007/10/26
桃の種小学校の庭へ投ぐ
前川弘明 長崎

 桃の種を小学校の庭へ投げたというのである。この小さな行為の中に様々な要素が感じられる。郷愁・エロス・時間感覚等々である。しかしこういうものは分析しきれないし、分析したらおかしなものになる。翔んでいる蝶を捕まえてピンで刺し止めていろいろ観察したり、科学的に調べても、飛翔する生きている蝶の本質は掴めないというのと似ている。「桃の種小学校の庭へ投ぐ」という無意識にかあるいは意識的にかさえも解らない人間の行為の不思議さをそのまま味わいたい。不思議。


32

鑑賞日2007/10/27
落書は「話すと死ぬ」や寒月下
マブソン青眼
 長野

 現代の風俗に古典的な月の美意識を取り合わせて秀逸である。「話すと死ぬ」という括弧書きも適切でこの句の俳諧性を高めている。


33

鑑賞日2007/10/28
倒立や冬がいちばん好きな兄
宮崎斗士 東京

 快活で茶目っ気さえある兄の姿が思い浮かぶ。冬の冷たい空気も何だか爽やかなものに感じられる。そういう第一印象であるが、少し考えて見ると、「冬がいちばん好き」という言葉には他の季節が好きだということにはない、かなりの含蓄がある。何かこう逆境が好きだというような人物像が思えてくる。逆境が好きでそれにチャレンジするのが好きで倒立でもしたくなるようなわくわくした気分になる人。そういう兄を新鮮に頼もしく感心して眺めている作者の姿。


34

鑑賞日2007/10/29
こおろぎや金平糖が頬の中
室田洋子 群馬

 「金平糖」というのは昔からある星形をした砂糖菓子である。今でもあるのだろうか。

http://tuhan.ne.jp/item/muji4548076779681/より

 「金平糖が頬の中」にあるというのは、楽しいような、童心のような気持ちがしてくる。「口の中」でなく「頬の中」であるというのも、女の子が頬を金平糖で膨らましている姿などが思い浮かぶ。そういう楽しいような童心のような気分と「こおろぎ」がよく合うのではないか。


35

鑑賞日2007/10/30
遠江水澄む底の影も澄む
茂里美絵 埼玉

 〈遠江〉は[とおとうみ]とルビ

 遠江というのは地名でもあるし、また遠い国、遠い所というようなニュアンスもある。すなわち旅情でもあるし、憧れをともなった黙想的な雰囲気もある。しかしあまりに澄み過ぎていて淋しい感じもある。作者の人柄ということであろうか。


36

鑑賞日2007/10/31
空耳に石蕗咲いて汝も黄の人よ
柳生正名 東京

 〈汝〉は[な]とルビ

 「空耳に」というのが問題であるが、これは暫く置いておく。「石蕗咲いて汝も黄の人よ」というのは、石蕗の花が咲きました、君(石蕗の花)も私と同じ黄の人ですねえ、という石蕗の花に対する親しみである。単なる親しみばかりでなく、同類ですねえ、あるいは同じ生き物ですねえ、あるいは同じ存在の一部ですねえ、あるいは一つの存在というものの違う現れに過ぎませんねえ、という大きな思想の表明である。さて「空耳に」ということであるが、これは「空耳がしました」と取ればいいのではないか。この大きな思想というものが空耳のような状態で啓示されたというように取れば良いのではないだろうか。私達は個別性という二元的(多元的)な日常の中に暮しているのであるが、実はこの個別性というのは幻影に過ぎないという真理を垣間見る瞬間がある。この二つの意識、多元的な意識と一元的な意識、の掛け橋として空耳という言葉が有ると私は見る。詩人が存在からの啓示を受けた瞬間である。


37

鑑賞日2007/11/1
白山へ夕紅葉ちる字御母衣
山本逸夫 岐阜

 「御母衣」は[みぼろ]と読む。御母衣ダムで有名である。このダム建設により230戸及び広い農地が湖底に沈んだらしい。当初はダム建設反対運動もあったらしい。また湖底に沈む予定だった樹齢400年以上の桜の大木が移植された有名な話などもあるらしい。こういうことを調べているうちに、どうしてもこのダムのことが句を読むと頭に浮かんでくる。もともと地名というのはその土地の持つ歴史や景観を背負っているものであるから、このダムのことを念頭に置いて鑑賞するのも間違いではないだろう。「おんははのころも」という「御母衣」という言葉自体がとても意味を感じる言葉である。自然を母と見做す。自然を尊いものと感じて大切に思うという東洋的な気持ち。自然を神の現れと見る感じ方がこの言葉の中にはある。この言葉が醸し出す意味合いとダムというものから受ける感じなどを合わせて句を味わっていると、肯定もしきれないし否定もしきれない人間の宿命のようなものを感じてしまうのである。


38

鑑賞日2007/11/2
夏にオロオロさまよう蟻となっており
山本昌子 京都

 どうしても私にはこれは人類の近未来の姿のような気がしてならない。作者は自分自身のことを書いたのかもしれないし、賢治の「サムサノナツハオロオロアルキ」の詩句が頭の片隅にあったかもしれないが、私には地球にとっては蟻のような存在である人類が環境破壊の進んだ地上をオロオロとあるいている姿が眼に浮かぶ。そういう意味でとてもインパクトがある。

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