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中村草田男を読む111〜120(『火の鳥』51〜60)
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句集『火の鳥』2 |
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己が胸見下ろす如く寒き崖を
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1939年
38歳 |
鑑賞日
2006/2/10 |
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この句などは下の句達に比べればうまくいっているのではないか。しっかりそう感じた、という譬えがあるのではないか。無理に作ろうとすると下の句達のようになる。 遠濤(なみ)と遠岩睦む明るさよ |
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句集『火の鳥』2 |
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冬濤を一川の紺裁ち裂ける
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1939年
38歳 |
鑑賞日
2006/2/11 |
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一昨日(110)あたりから続いた愚痴を言うことを今日かぎりにしたい。また四十句くらいをとばした。とばした理由は同じである。とばした句の文句を言ってもしょうがないので、これからは良いと感じた句だけを黙って取り上げてゆくことにしたいものである。 この句は一読はっきりとした景が見えて良い句である。 |
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句集『火の鳥』2 |
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島の娘佇てり石井戸清水ともに汲み
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1939年
38歳 |
鑑賞日
2006/2/12 |
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〈娘〉は[こ]、石井戸は[いはゐど]とルビ 素朴でありながら、神話的な雰囲気もただよう。この雰囲気が好きである。 |
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句集『火の鳥』2 |
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洋が咲かせし無人の磯の鳳仙花
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1939年
38歳 |
鑑賞日
2006/2/13 |
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〈洋〉は[うみ]と読むのであろう。 無人の磯に可憐な鳳仙花が咲いているという景色を想っただけでも素敵だ。「洋が咲かせし」という言葉で、自然の事物と事物の交感があり、この鳳仙花は孤独ではない。自然は孤独ではないのだ。 |
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句集『火の鳥』2 |
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青萱に切られて血噴く一文字
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1939年
38歳 |
鑑賞日
2006/2/14 |
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黒沢明の「椿三十郎」という映画の最後の場面で、決闘して斬られた悪役の腹から血がおびただしく噴きだすという印象的な場面があった。あの映画で思いだすのはこの場面しかないというような印象的で痛快な場面である。 |
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句集『火の鳥』2 |
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輪煙あまたのこす出船に土用波
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1939年
38歳 |
鑑賞日
2006/2/15 |
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〈波浮の港〉と題する連作の一つ この辺りの句はやはり説明的とは言えるが、ずっと読んでいると作者とともにその風土を辿っているような快い映像感はある。写実の力と言えようか。110、111の観賞で文句をつけた句達も連作として読めば同じようなことが言えるのではある。 青き雨港一曲(ひとわ)に山へ霽る |
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句集『火の鳥』2 |
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遊び女いたみわれひざかりの牛乳飮めり
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1939年
38歳 |
鑑賞日
2006/2/16 |
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〈牛乳〉は[ちち]とルビ 「遊び女」といういかにも不健康そうな事物と「ひざかりの牛乳を飲む」という健康的な仕草の対比である。「いたみ」とまで言わなくても良いのではなかろうか。そこまで言うと、いかにも道徳的・倫理的なものの見方が出て来てつまらない。 |
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句集『火の鳥』2 |
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僧を訪ふ蝮も出でん夕凉に
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1939年
38歳 |
鑑賞日
2006/2/17 |
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〈岡田村に島丈導師を訪ふ云々・・〉という長い前書がある 「僧を訪ふ」という感じと「蝮も出でん」という感じが響きあう。本来、僧というのは蝮のごときものだからである。良い意味でである。 |
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句集『火の鳥』2 |
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夕凉の洋も蜥蜴もひかりをさめ
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1939年
38歳 |
鑑賞日
2006/2/18 |
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〈岡田村に島丈導師を訪ふ云々・・〉という長い前書のある二句目。 海に面した地方の暑い夏の日の夕方の感じがよく出ている。前書を考慮すれば、自分の中の様々な思惑やチラチラした思いも落ち着いて、腹が決ってきたという感じもあるのかもしれない。 |
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句集『火の鳥』2 |
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燈臺下小鳥の聲に僧は住む
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1939年
38歳 |
鑑賞日
2006/2/19 |
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〈岡田村に島丈導師を訪ふ云々・・〉という長い前書のある三句目。 草田男はこの僧に会いに行く途中である。まだ会っていない。だからこの句は草田男のこの僧に対するイメージである。僧の生活というものを理想化して見ているのであるが、心楽しいイメージではある。 |
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