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中村草田男を読む171〜180(『来し方行方』17〜26)
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句集『来し方行方』 |
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吾子等喜戯南瓜の花は民の花
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1944年
43歳 |
鑑賞日
2006/4/15 |
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自分の子供たちが嬉しそうに遊んでいる、南瓜の花が咲いている。庶民感覚というか、土に近い感じというか、そんなことを言っている。 |
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句集『来し方行方』 |
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蜥蜴ゆく騎士行進の四蹄の間を
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1944年
43歳 |
鑑賞日
2006/4/16 |
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〈間〉は[ま]とルビ 草田男俳句がだんだん分かりにくいものになっていく一つの例としてこの連作を取り上げた。分かりにくいというのはあまりにも自分の想念にのめり込んでしまう故である。つまり俳句が自分の想念の説明になってしまっている。この連作は上記の通りにデューラーの絵の俳句化であると説明があるからそれなりに分かるのであるが・・・その連作 蜥蜴ゆく騎士行進の四蹄の間(ま)を ここではこの騎士に草田男自身を重ね合わせているのは明白である。ちなみにそのデューラーの版画は次である。
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句集『来し方行方』 |
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詩人地を踏んで近よる寺の薔薇
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1945年
44歳 |
鑑賞日
2006/4/18 |
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自分のことを詩人であるという自負心は結構であるが、あまり過ぎるのは良くない、前の句の鑑賞でも触れたが、独り善がりのものになってゆく可能性がある。 |
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句集『来し方行方』 |
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水邊へ出てためらふ蜥蜴水へ入りぬ
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1945年
44歳 |
鑑賞日
2006/4/19 |
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〈水邊〉は[みづべ]とルビ 写生句なのであるが、何か意味を感じてしまうのである。何かぬめぬめとしたような意味である。これは多分草田男のこれからの在り方の予兆であると私がかってに思い込んでいるのかもしれない。草田男がそういう処に入り込んで行くという。草田男俳句はざっと一度通読しただけであるから、これが私の危惧であってくれればいいとは思う。 |
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句集『来し方行方』 |
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百千鳥もつとも烏の聲甘ゆ
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1945年
44歳 |
鑑賞日
2006/4/20 |
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カラスの声を甘いと感じた感性に共鳴した。しかも百千鳥の中で最も甘いというのは、この頃の草田男の何かの心意を感じる。 |
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句集『来し方行方』 |
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落椿わが乳母島の女なりき
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1945年
44歳 |
鑑賞日
2006/4/21 |
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落椿を見ながら乳母のことを思いだしている。しみじみとした時間を感じる。実際はどうか知らないが、椿→大島椿→大島という連想から、この乳母は伊豆大島の出身だったのかなどとも想像が働く。乳母の訃報を聞いて書いたとまですると、「落椿」がいかにもという感じで却って鼻につくので違うだろう。 |
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句集『来し方行方』 |
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蟷螂は馬車に逃げられし馭者のさま
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1945年
44歳 |
鑑賞日
2006/4/22 |
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この句の少し前に、〈終戦の大詔を拝したる日、及びそれにつぐ日日、六句〉と前書のある句がある。それを並べてみる 烈日の光と涙降りそゝぐ 前二句のオーバーな表現からはじまって、すっとエネルギーがしぼんで、どうでもいいというように終っている。それにひきかえこの掲出句は直接敗戦を詠んだものではないが、戦争の愚かさを童話風の小さな世界で描いたもののような気さえするのである。草田男には社会性というものは不向きで、どちらかというと内向きな性格だったのではないか、というのが今の私の感触である。 |
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句集『来し方行方』 |
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燒跡に遣る三和土や手毬つく
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1945年
44歳 |
鑑賞日
2006/4/23 |
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世界中に戦争は絶えない。しかしその焼跡で子供はいつも手毬をつく。これは普遍的なことである。もちろん手毬ではなくサッカーや缶蹴りであるかもしれない。人間の愚かさ、しかし子供のエネルギーは常にある。 |
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句集『来し方行方』 |
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空は太初の青さ妻より林檎うく
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1946年
45歳 |
鑑賞日
2006/4/24 |
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正に創世記の世界。そして草田男の妻俳句が冴える。草田男は亡くなる前日に洗礼を受けている。これなども「妻より林檎受く」ということに符合する。 |
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句集『来し方行方』 |
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斯かりし母よ育兒の妻よ風の柘榴
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1946年
45歳 |
鑑賞日
2006/4/25 |
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母でありまた妻でもある直子夫人への言葉。「風の柘榴」という形容が見事である。 |
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