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中村草田男を読む231〜235(『母郷行』16〜20)

231/bokyoukou 16

句集『母郷行 
昭和二十九年
 

小娘となりゐし吾子等鳰の行衛
1954年
53歳
鑑賞日
2006/7/29

 だんだん成長してゆく娘、そして鳰の行衛、この二つの事柄が響くのである。


232/bokyoukou 17

句集『母郷行 
昭和二十九年
 

梅雨芽の月「主」を吾に似たる人と覚ゆ
1954年
53歳
鑑賞日
2006/7/30

 〈主〉は[しゆ]、〈吾〉は[あ]とルビ

 主すなわちキリストが自分に似ていると思うというのである。このことに関しては言葉がないが、「梅雨芽の月」というのは雰囲気があり、そんなことを想う背景としては首肯ける。


233/bokyoukou 18

句集『母郷行 
昭和二十九年
 

世間師の齒白く汗を壓拭
1954年
53歳
鑑賞日
2006/7/31

 〈壓拭〉は[おさへぶき]とルビ

 だいぶ飛ばして読んでいるが、私の気持ちに響いてくる句がないからである。この句が響いてきたというのではないが、どこかで見かけた句なので取り上げた。
 たしかにある種の人間を捉えて写生が巧みであると言えるかもしれないが、どこか自分を高みに置いているような態度が感じられるのが好ましくない。虚子ほどではないが。


234/bokyoukou 19

句集『母郷行 
昭和二十九年
 

獸屍の蛆如何に如何にと口を擧ぐ
1954年
53歳
鑑賞日
2006/8/1

 獣屍の蛆に「如何に如何に」と言わせたところがこの句のインパクトなのであるが、逆にそれが気味が悪い。存在のある種の気味の悪い見方である。こんな言い方ができるかどうか解らないが、ソウルが物に従属した不自由な感じとでも言おうか。


235/bokyoukou 20

句集『母郷行 
昭和二十九年
 

亡母の薔薇光の中はさびしきかな
1954年
53歳
鑑賞日
2006/8/2

 草田男の孤独感が出ている。何故だかトルストイの「光あるうち光の中を歩め」という言葉が連想された。しかし真に光りの中を歩んで孤独になることはない。光の中を歩んでいると錯覚したときに孤独になることはある。孤独というのは闇の中に居ることにほかならないからである。
 しかしこの一句だけを取り上げてみれば、死んだ母への想いが美しくも哀しく伝わってくる。

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