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山頭火『草木塔』を読む101〜110
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柿の葉 |
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からまつ落葉まどろめばふるさとの夢
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昭和11年
(1936) 54歳 |
鑑賞日
2006年 4/15 |
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山頭火は十歳の時に母親が井戸に投身自殺をしている。心理的な意味で山頭火の子供時代はその時点で終ったのではないか。十全なる子供時代を過ごしてこないと、その時代をいつまでも引きずる。。 |
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柿の葉 |
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水音とほくちかくおのれをあゆます
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昭和11年
(1936) 54歳 |
鑑賞日
2006年 4/18 |
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〈行雲流水〉という言葉がある。何事にも執着せずに流れるように生きるという雲水の生き方を表す言葉である。山頭火の句を読んでいると、そのような感じがしないでもないが、やはりどこか表面的である。〈行雲流水〉ということへの憧れはあるのかもしれないが、どこかが本物でない。あえて言えば〈行雲流水もどき〉とでも言えようか。憧れるというのと、そのものであるというのは大きな違いである。山頭火の水への志向は〈行雲流水〉ということへこだわりの部分が大きかったのではないか。 |
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柿の葉 |
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わたしひとりの音させている
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昭和11年
(1936) 54歳 |
鑑賞日
2006年 4/19 |
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このあたりずうっとの山頭火の句を読んでいて、何か形容する言葉を探していたのであるが、この句はそれをを形容していると思った。悪くいえば、要するにこのあたりの山頭火の句は彼の個我の音をさせているだけなのである。だから、甘えているという感じもするし、独り言という感じもする。 |
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柿の葉 |
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鴉啼いたとて誰も來てはくれない
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昭和11年
(1936) 54歳 |
鑑賞日
2006年 4/20 |
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甘え。まるで浪花節。女々しい。 |
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柿の葉 |
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ぬれててふてふどこへゆく
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昭和11年
(1936) 54歳 |
鑑賞日
2006年 4/21 |
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何年か前の句に「うしろすがたのしぐれてゆくか」という、ある意味では潔い句があったが、この掲出句などは泣き言である。昨日の句も含めてこの辺りの泣き言の句を並べておく 酔ざめの風がかなしく吹きぬける |
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柿の葉 |
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からむものがない蔓草の枯れてゐる
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昭和11年
(1936) 54歳 |
鑑賞日
2006年 4/22 |
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このところ山頭火の悪口ばかり書いているようで、いい加減に止めようかと思うのであるが、この句を見て思わず笑ってしまったので頂いた。山頭火の在りようを自分自身であからさまに告白しているようで、とても可笑しかったのである。 |
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柿の葉 |
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月からひらり柿の葉
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昭和11年
(1936) 54歳 |
鑑賞日
2006年 4/23 |
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これなどは叙景句として美しい。何かを見たなという感覚さえ起る。 |
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柿の葉 |
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けふは凩のはがき一枚
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昭和11年
(1936) 54歳 |
鑑賞日
2006年 4/24 |
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昨日鑑賞した句といいこの句といい好きである。自由律でも山頭火はあまりぐてぐてと長く言わないで短く言ったほうが良いのではないかと思えてくる。短い句を集めてみた。 鴉鳴いてわたしも一人 みんないい。 |
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柿の葉 |
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洗へば大根いよいよ白し
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昭和11年
(1936) 54歳 |
鑑賞日
2006年 4/25 |
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大根の質感とか色だけがあって印象的である。すぐ後に出てくる ひとりの火をつくる なども余分なものが無く、それぞれ「火」「藁塚」「鴉」が見えてくる。みんな短い句である |
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孤寒 |
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うどん供へて、母よ、わたしもいただきまする
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昭和13年
(1938) 56歳 |
鑑賞日
2006年 4/26 |
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〈母の四十七回忌〉と前書 八十句ばかりとばしてしまった。取り上げるべき句が無いような気がしたからである。そしてこの句にぶつかった。四十七年前に死んだ母への思いがこれだけ残っている。山頭火の母は自殺だった。いわば山頭火は捨てられたわけである。しかし、母を恨むことなど人間にはできない。この句は母への片恋の句かもしれない。大いなる母性的なるものへの片恋である。 |
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