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山頭火『草木塔』を読む21〜30

21

鉢の子

れいろうとして水鳥はつるむ
昭和4年
(1929)
47歳
鑑賞日
2006年
1/21

 玲瓏(玉のように美しく輝くさま)として水鳥がつるむ、という感覚自体はとても美しいものであるが、やはり感覚を投げ出すように書いていてぶっきらぼうな印象がある。旅をしながら言葉を吐き出すように句を作ったことが山頭火の魅力だと思うのであるが、反面この句のように舌足らずなものが出来てしまうのは止むを得ないのか。


22

鉢の子

どうしようもないわたしが歩いてゐる
昭和4年
(1929)
47歳
鑑賞日
2006年
1/22

 わたしというのは常にどうしようもない。影のようだ。常につきまとう。どうしようもないわたし。しかしそのどうしようもないわたしを見ている私がたしかに居る。句を作っているのはその私である。「私は誰」「解らない」
 どうしようもないわたし、どうしようもない。捨てようもない。否定もできない。確かにいるのだから。
 せめてこの、どうしようもないわたしを肯定して生きよう。どうせどうしようもないのだから。
 どうしようもないわたしが歩いている。


23

鉢の子

分け入れば水音
昭和4年
(1929)
47歳
鑑賞日
2006年
1/23

 「分け入っても分け入っても青い山」だったものが「分け入れば水音」となれば、これは少し希望が見えてきたのかなと勘ぐりたくなるが、いかがなものか。
 分け入っても分け入っても、玉葱を剥くように何もないというのが突きつけられる人間の現実であろう。だから、水音を聞いたということは、また幻聴のように去って行ってしまうかもしれない。しかし人間は分け入らざるをえない。山頭火は分け入らざるをえない。この長い道程そのものが人間存在に課された、いわば仕事である。


24

鉢の子

すべつてころんで山がひつそり
昭和4年
(1929)
47歳
鑑賞日
2006年
1/24

 「すべつてころんで」というのは滑稽感のある動作であり、また書き方もそうである。しかし、山はひっそりとしている。自然と共鳴していない自分がいる。自分の存在が浮いている。軽い虚しさの表明である。


25

鉢の子

捨てきれない荷物のおもさまへうしろ
昭和4年
(1929)
47歳
鑑賞日
2006年
1/25

 実際に山頭火が振り分けにした荷物の重さを感じている、と同時に山頭火の心理的な状況に重ねているのではないか。自分が捨てたとした家族や仕事、しかし捨てきれてはいない、心に残っているのである。またこれから僧として目指すべき修業の道が重い、ということなのではないか。
 このような事態は殆ど全ての人間に当てはまる状況である。過去への囚われ、未来への欲望、これらが重くのしかかっている。何が間違っているのだろうか。私は「捨てきれない」というのがそもそもの間違いであると考える。捨てる必要はそもそもないのではないか。不必要なものは自ずから落ちるのであって、自分が意志して捨てる必要はないのである。かさぶたは自然に剥れるのである。
 金剛般若経にある「求道者の道に向かうものにとって何かの法が切断されるということはない」という言葉が好きである。


26

鉢の子

法衣こんなにやぶれて草の實
昭和4年
(1929)
47歳
鑑賞日
2006年
1/26

 何でも象徴的に解してしまうのはどうかと思うが、これも私の一つの癖である。

 守ろうとしても守れない法。多分そこには自然の摂理に反したものがあるのである。だからその象徴でもある法衣がこんなにも破れてしまって、自然であることの象徴である草の実が沢山付いているのである。そのような意味が潜んでいるから、この句から受ける印象が、どこかしら痛快なのであろう。


27

鉢の子

岩かげまさしく水が湧いている
昭和5年
(1930)
48歳
鑑賞日
2006年
1/27

 山頭火の句には「水」が多い、この句は『草木塔』の五十句目の句であるが、この句を含め今までに次のような句があった。

へうへうとして水を味ふ
水に影ある旅人である
れいろうとして水鳥はつるむ
分け入れば水音
枯山飲むほどの水はありて
岩かげまさしく水が湧いている

 この三句目は「水鳥」であるが、これも水が深く関係しているように思う。五十句中六句である。そして『草木塔』にはこれからも「水」の句がたくさん出てくる。
 またネットで山頭火の「水」の出てくる句を検索してみるとサッと次のようなものが出てくる。

子を連れては草も摘むそこら水音
父子ふたり水をながめつ今日も暮れゆく
水に雲かげもおちつかせないものがある
水 を 前 に 墓 一 つ
水をわたる誰にともなくさやうなら
水 を 渡 つ て 女 買 ひ に 行 く
水 音 の、 新 年 が 来 た
水 音 を さ ぐ る
水音遠くなり近くなつて離れない
石ころに陽がしみる水のない川
濁 れ る 水 の 流 れ つ つ 澄 む
水音のたえずして御仏とあり
水 飲 ん で 尿 し て 去 る
しづけさは死ぬるばかりの水が流れて
なにやらかなしく水のんで去る
ふ と 思 ひ 出 の 水 音 か げ り
こ こ ろ お ち つ け ば 水 の 音
さうろうとして水をさがすや蜩に
ここまでを来し水飲んで去る
この水あの水の天龍となる水音

 山頭火の全ての句では、おそらく相当な数になるに違いない。山頭火は水に対する特別な思い入れがあった、水と特別な関係にあったと言ってもいいだろう。
 だから掲出句のような句を作るのに違いない。


28

鉢の子

岩が岩に薊咲かせてゐる
昭和5年
(1930)
48歳
鑑賞日
2006年
1/28

 面白い句である。岩に薊が咲いている、というのが普通の把握であるが、岩が岩(自分自身)に薊を咲かせているという把握は奇妙である。アニミズムという気もするし、何か屈折した自然観のような気もするし、幼児に近い自然把握のような気もする。


29

鉢の子

水音といつしよに里へ下りて来た
昭和5年
(1930)
48歳
鑑賞日
2006年
1/29

 また水である。この句の数句前に「こんなにうまい水があふれている」というのもある。飲んで味わう水の句もあり、聞いて感じる水音の句も多い。
 私の場合は飲んで味わう水をそんなに意識したことはないが、水の音というのは私も意識する。だから、この句のように、水音と一緒に里へ下りて来るという感じは良く解るのではあるが、水への思い入れがここまで有る山頭火の感じ方はもっと強いのかもしれない。

水の音そして水音冬の散歩   空音


30

鉢の子

墓がならんでそこまで波がおしよせて
昭和5年
(1930)
48歳
鑑賞日
2006年
1/30

 これなどはその景色がよく見える。波の動きもよく見える。しかし、全体に幼児性の感じられる表現のような気がする。幼児的アニミズムとでも言っておきたい。

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