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山頭火『草木塔』を読む71〜80

71

山行水行

生えて伸びて咲いてゐる幸福
昭和9年
(1934)
52歳
鑑賞日
2006年
3/12

 山頭火は写真では見るからに男っぽい風貌であるし、この『草木塔』の始めのころの句は男性的でもあった。しかしある時から女性的な質に変ったのではないかと今日は考えている。自分の置かれた境遇にあまり抵抗しなくなったということである。“受け入れた”ということである。そう考えれば私も山頭火を読んでいける気がする。そう考えればこの句などは可愛らしいではないか。


72

山行水行

誰も来てくれない蕗の佃煮を煮る
昭和9年
(1934)
52歳
鑑賞日
2006年
3/13

 この句を男性が書いたとしたら、情けないという感じはどうしても起る。しかし女性の句だとしたら、まあこういう心情もあるのかなあと思える。昨日、山頭火は女性的な質に変化したのではと書いたが、そういう目でみれば納得できる句ではある。


73

山行水行

ちんぽこもおそそも湧いてあふれる湯
昭和9年
(1934)
52歳
鑑賞日
2006年
3/14

 〈千人風呂〉と前書

 たっぷりとした大浴場の雰囲気が出ている。私は混浴はあまり好きではない。リラックスできないと思う。つまり女性を意識するからである(もっとも男性だけの公衆浴場もあまり好きではない)。このような浴場が好きな人は中性的な資質があるのではないか。


74

山行水行

食べる物はあつて醉ふ物もあつて雑草の雨
昭和9年
(1934)
52歳
鑑賞日
2006年
3/15

 山頭火はこの「山行水行」という小さな句集の後書きに次のように書いている。

・・・
あるけばきんぽうげすわればきんぽうげ
あるけば草の実すわれば草の実
 この二句は同型同曲である。どちらも行乞途上における私の真実をうたつた作であるが、現在の私としては前句をすてて後句を残すことにする。
・・・

 このような文章を頭に入れながら掲出句を読むと、山頭火は自分のことを雑草に譬えているのではないかと思えてくる。食べ物もあり自分を酔わせてくれる好きな酒もある、まことに雑草にとっての雨のようであることだ、というような感じであろうか。


75

山行水行

蜘蛛は網張る私は私を肯定する
昭和9年
(1934)
52歳
鑑賞日
2006年
3/16

 この句の次の句にも

いつでも死ねる草が咲いたり實つたり

というのがある。この「私は私を肯定する」とか「いつでも死ねる」というのはその反対の意識が潜んでいる証拠である。自分を否定する意識があり、死が恐いという意識が潜んでいると私は見る。自分を励ましている句ととればいいのかも知れないが、どこか酔っぱらいが管を巻いている感じがしてしまうのは、山頭火に申し訳ないだろうか。
 ちなみにその次の一句

日ざかり落ちる葉のいちまい

は泥酔した時のつぶやきのようでもある。


76

山行水行

青空したしくしんかんとして
昭和9年
(1934)
52歳
鑑賞日
2006年
3/17

 この感じは気持ちがいい。悲哀もなく自我の不安もなくただ青空が親しくしんかんとして在る。


77

山行水行

百合咲けばお地蔵さまにも百合の花
昭和9年
(1934)
52歳
鑑賞日
2006年
3/18

 子どものようだ。
 山頭火は子供の時に母の自殺に遭遇するという深い心理的な傷を負って生きて来たが、そのようなトラウマから脱却するためにはもう一度その時点に戻る必要があったのかもしれない。子どもは子どもとして十全に子どもを生きないとその子ども性から脱却することはできない。見かけは大人でもどこかに子ども性が残ってしまうのである。これは山頭火に限ったことではなく、殆どの人について言えるのではないか。これはイエスが「子どものようにならなければ神の国には入れない」と言ったことにも通じてくる。殆どの人はもう一度子どもになる必要がある。


78

山行水行

草にも風が出てきた豆腐も冷えただろ
昭和9年
(1934)
52歳
鑑賞日
2006年
3/19

 このような句は素直に気持ちがいい。自然の事象と生活の事象が無理なくつながって快い。


79

山行水行

ここを死に場所とし草のしげりけり
昭和9年
(1934)
52歳
鑑賞日
2006年
3/20

 植物の生とはこの句のようなものである。自分では考えないし意思がないし行動をしない。それでいて美しいものがある。そのような在り方への山頭火の憧れがあるのではないか。しかしそうはいかないのが人間存在である。


80

山行水行

重荷を負うてめくらである
昭和9年
(1934)
52歳
鑑賞日
2006年
3/21

 宗教の普遍的な問いかけは「私は誰か」ということである。この句について言えば「重荷を負うでいるのは誰」「めくらであるのは誰」ということになる、そして「それは私である」となり、では「その私は誰」ということになる。そのあたりを見据える力が山頭火にはなかった。

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