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山頭火『草木塔』を読む81〜90

81

山行水行

何か足らないものがある落葉する
昭和9年
(1934)
52歳
鑑賞日
2006年
3/22

 「何か足らない」という感じは殆どの人が持っている傷である。そして殆どの人はそれを別の何かで埋め合わせをしている。例えば「未来に於てこのような状況になったら自分は満足感を得られるかもしれない」というような儚い希望である。現在の「何か足らない」という感じを未来に預けてしまうわけである。現在において十全でないものが未来に於て十全になるはずはないのであるが。
 例えば富豪になる多くの物を所有するということが満足感を与えてくれるのではないかという希望で突き動かされる人がいる。手近な例でいえばライブドアの堀江さんなどであるが、結果は失敗してしまった。そしてもし彼が表面上成功して大富豪になることができたとしても、そこには満足感はないということを私は断言しておきたいのである。
 山頭火の場合は「何か足らないものがある」と気がついているのだから、その意識を深めることによって、生の質の変容に繋がる可能性はあるはずなのではあるが。


82

山行水行

ともかくも生かされてはゐる雑草の中
昭和9年
(1934)
52歳
鑑賞日
2006年
3/23

 雑草の中に居て生かされている、という生の捉え方は建康である。「ともかくも・・・は・・・」という書き方に山頭火の疑念がちらちらするのではあるが。


83

旅から旅へ

月も水底に旅空がある
昭和9年
(1934)
52歳
鑑賞日
2006年
3/24

 このあまりにも澄み過ぎている漂白感には堪えられないものがある。
 山頭火の心の揺れの一極点かもしれない。ぐでぐでとしただらしない感じの山頭火とは対極の山頭火である。いや、この句には山頭火という人間の影が無いから淋しいのではないか。私としては以前に作った「まっすぐな道でさみしい」と言われたほうが人間的な気分になれる。


84

旅から旅へ

すわれば風がある秋の雑草
昭和9年
(1934)
52歳
鑑賞日
2006年
3/25

 山頭火が歩いて旅をしていたことを思うとこの句の気持ち良さがよく分かる。歩いて来て座った時のほっとした気持ち、風の気持ち良さ、雑草への親しみなどの他に、汗ばんだ身体や疲れた脚などの解放感も感じることができる。歩いて旅をしている人の句でなければ「そうですねえ」でおわる。


85

旅から旅へ

道がなくなり落葉しようとしている
昭和9年
(1934)
52歳
鑑賞日
2006年
3/26

 歩いてきたら道がなくなってしまった、そしてそこには今まさに落葉しようとしている木が立っている。
 生きている目的は解脱である。そして解脱ということは「落葉」ということで表象され得る。今までしがみついていた幹からすっと離れて自由に風に舞っていく。そしてこの解脱ということは今まで歩いてきた道が全て閉ざされてしまった時に起るのが常である。
 外側の事柄を書いて内側の事柄を暗示するのが詩であるから、山頭火が上のようなことを考えていたのは明らかであるが、考えていただけであって実際に解脱したのではない。「・・しようとしている」という煮え切らない言葉がその証拠である。坊主の空念仏に近い。


86

旅から旅へ

柳ちるそこから乞ひはじめる
昭和9年
(1934)
52歳
鑑賞日
2006年
3/27

 この句のほうが昨日取り上げた句よりは観念の匂いがしなくていい。柳がちる、心身脱落のような感じ、そしてそこから乞うという生き様がはじまる。


87

旅から旅へ

あるけば草の實すわれば草の實
昭和9年
(1934)
52歳
鑑賞日
2006年
3/28

  山頭火はこの「山行水行」という小さな句集の後書きに

・・・
あるけばきんぽうげすわればきんぽうげ
あるけば草の実すわれば草の実
 この二句は同型同曲である。どちらも行乞途上における私の真実をうたつた作であるが、現在の私としては前句をすてて後句を残すことにする。
・・・

と書いているが、私は前の句を取る。前の句のほうがリズムも色彩もあり楽しい。後の句には観念の影があり重くれている。


88

旅から旅へ

飲みたい水が音たててゐた
昭和9年
(1934)
52歳
鑑賞日
2006年
3/29

 〈木曾路 三句〉と前書のある一句目

 山頭火は〈昭和八年十月十五日、其中庵にて〉として、次の文を書いている

 ・・・(略)・・・
 私は酒が好きであり水もまた好きである。昨日までは酒が水よりも好きであつた。今日は酒が好きな程度に水も好きである。明日は水が酒より好きになるかもしれない。
「鉢の子」には酒のような句(その醇不醇は別として)が多かつた。「其中一人」と「行乞途上」には酒のやうな句、水のやうな句がチャンポンになつてゐる。これからは水のやうな句が多いようにと念じてゐる。淡如水─それが私の境涯でなければならないから

 掲出句にはこの山頭火の水好きが肉体的にも心理的にも本当だということが解るような、水に出会ったときの嬉しい瞬間が表現されているように思う。


89

旅から旅へ

山しづかなれば笠をぬぐ
昭和9年
(1934)
52歳
鑑賞日
2006年
3/30

 〈木曾路 三句〉と前書のある三句目

 この気持ちが解るような気がして頂いた。
 山頭火の写真を見ると殆ど顔が見えないような深い笠を被っている。また私が子どもの頃には虚無僧などといって全く顔を隠すように作られた笠を被って托鉢に来る僧もいた。世間に顔を見せない、あるいは世間を捨てたという意識が彼等にはあるのかもしれない。別に僧でなくても、私達は多かれ少なかれ世間では仮面を被って生きている。
 「山しづかなれば笠をぬぐ」、自分が素顔でいられる時間である。


90

雑草風景

残された二つ三つが熟柿となる雲のゆきき
昭和9年
(1934)
52歳
鑑賞日
2006年
3/31

 「残された二つ三つが熟柿となる」と柿に引きつけておいて「雲のゆきき」と離れたのが上手いと思ったのであるが、ずっと読んでいると酩酊感が起ってくるのはなぜか。

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