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山頭火『草木塔』を読む91〜100

91

雑草風景

なんぼう考へてもおんなじことの落葉ふみあるく
昭和9年
(1934)
52歳
鑑賞日
2006年
4/2

 最近感じている、深い思考というのはあり得ないと。思考そのもののの性質がそうなのである。思考はただ表面的な事柄を調べたり繋ぎあわせたりひっくり返しているだけなのである。そして堂々めぐりする。もっともこれは哲学的な事柄に関することであり、実際的具体的な生の営みに関しての思考は有益な結果がある。哲学的な思考に於ての唯一の成果は、思考は無駄である、ということを悟ることである。


92

雑草風景

あなたを待つてゐる火のよう燃える
昭和9年
(1934)
52歳
鑑賞日
2006年
4/3

 〈白船老に〉という前書

 まるで同性愛者のようである。私は同性愛の心理的なメカニズムはよく解らないが、人間は自己愛→同性愛→異性愛という過程を辿って成長してゆくのだと聞いたことがある。幼児のときの母の自殺や父の放蕩など、愛情に満たされなかった山頭火が同性愛の資質を持っていたとしても不思議ではないし、句友のところを尋ね歩いたりしながら流浪した山頭火を考えると同性愛の資質を持っていたと見るほうが自然である気はする。


93

雑草風景

枯れゆく草のうつくしさにすわる
昭和9年
(1934)
52歳
鑑賞日
2006年
4/4

 きれいすぎるくらいの句である。水の澄んだような雲水の心持ち。このようなこのような時間が山頭火にも在ったに違いない。


94

雑草風景

枯木に鴉が、お正月もすみました
昭和10年
(1935)
53歳
鑑賞日
2006年
4/5

 山頭火をずっと読んでいると、子どもの片言のようだなあと思うことがしばしばである。〈子どものようだ〉というのが悪いのではない、しかし半面だという気がある。子どものような気持ちになれない人は不幸であるが、そればかりでは危なっかしい。自分の中の大人の部分と子どもの部分を自覚して生きていくのが望ましい気がする。
 芭蕉の「枯枝に烏のとまりけり秋の暮れ」という大人の句を思いだした。


95

雑草風景

伸びるより咲いている
昭和10年
(1935)
53歳
鑑賞日
2006年
4/6

 別に伸びなくてもいい。現在あるがままの状態でただ咲けばいい。現在あるがままの状態を恵として受け入れれば咲く。このような意味にとれて共感できたので頂いた。


96

雑草風景

ひつそり咲いて散ります
昭和10年
(1935)
53歳
鑑賞日
2006年
4/7

 女々しいという感じである。酒を飲み水を飲み放浪し、また山頭火の写真などから受けるイメージとは違うものがあるが、実際には内面と外面は相反する性質を持っているというのが一般的は事実である気はする。


97

雑草風景

青葉の奥へなほ徑があつて墓
昭和10年
(1935)
53歳
鑑賞日
2006年
4/11

 意味深である。いろいろな事があるけれど最後には死が待っているというようないかにも坊主くさい意味を感じる。そんなことは誰でも分かっていることだから逆にその意味深なところが鼻についてくる。言葉の意味だけで死を描こうとしてもそうはいかない。しかしこの青葉だけは美しい。


98

雑草風景

炎天の稗をぬく
昭和10年
(1935)
53歳
鑑賞日
2006年
4/12

 悪く言えばこのあたりの句は酔っ払いのもの言いを聞いているような感じがする句が多いのであるが、この掲出句は久しぶりにピンと張りつめた良い句である。「鉄鉢の中へも霰」に比肩しうるのではないか。


99

雑草風景

てふてふもつれつつかげひなた
昭和10年
(1935)
53歳
鑑賞日
2006年
4/13

 これなども実感というよりは意味が感じられる。そしてその意味がかなり手垢にまみれたものであるから鼻につくものがある。


100

柿の葉

あるけばかつこういそげばかつこう
昭和11年
(1936)
54歳
鑑賞日
2006年
4/14

 〈信濃路〉と前書

とくにどうということはないが、リズム感だけはいい。

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