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〈生の詩人 金子兜太〉 61〜70

番号
覚え書き

日付

61

黒猫ありきらきらの眼は菱の実 

070218

 猫にもいろいろ性格があるらしい。今飼っている猫はどうやら臆病らしい。先日獣医がそう言っていた。相当ぶるぶると震えたらしい。そう言えば、家に居るときも家人の側に居たがることが多いようであるし、すぐに膝に乗ってこようとする。それに比べると前に飼っていた猫はもっとおっとりとしてさっぱりとして自立的であったような気がする。今日書きたいのはこの前に飼っていた猫の事である。この猫の死に方の事である。
 ヨウヘイ(猫の名前)の死に方はとても潔いものであった。ある日突然に居なくなってしまったのである。そのうち帰って来るだろうと思っていたが帰って来なかった。調べてみると、猫によっては自分の死期を悟ると飼い主から姿を消すという習性があるらしいという事が分かった。姿を消す前に病気らしい様子も見せなかったし、少し動作は衰えた感じは有ったが、死ぬような感じではなかった。それが突然に居なくなってしまったのである。何処に行ったのかが不思議であり、今だに分らない。この出来事は去年の六月の事であるが、今では私はこの山河の何処かにヨウヘイは眠っているのだというイメージがある。そしてこの猫の死を尊敬している。34でのあのような遺書を書いたきっかけの一つでもある。

黒猫ありきらきらの眼は菱の実     『狡童』




62

霧を来て腹がへつたと一茶は言う 

070219

 腹が減ったあ。私は糖尿病であるから常に大体腹が減っている。腹が減っていることが常態である。つまりそれだけ食事制限をしている。あまり満腹にした時などは罪の意識さえある。これだけ食事制限するのは、まだまだ生きたいという欲望が強いからであろう。そのくせ煙草は吸う。煙草だけが口の楽しみである。煙草を吸うと少し空腹感がごまかせるという理屈もある。貧しい国の子供達などの喫煙率が高いのは飢えの所為だという説もあるそうである。とにかく私は煙草やコーヒーやガム(ノンシュガーの)やお茶で空腹をごまかしている。それでも人間の生理はごまかしきれない。あーあ、とにかく腹が減ったああ。

霧を来て腹がへつたと一茶は言う    『両神』




63

愚連隊恋猫蹴らんとして転ぶ 

070220

 避妊手術を受けた猫もだんだん元気が回復してきた。この猫は白猫なのでスノー(雪)という名前である。動物というものは辛抱強いものである。痛くともじっと我慢をしている。痛いだ何だかんだギャーギャー言わないのである。自然を信じてじっと待つ。自然を信じてというよりは自然そのものなのである。腹が減っても人間様ほどには「腹がへった、何だかんだ」言わない。大したものである。
 時々、動物の方が人間より優れているのではないかと思う。その知恵の深さは人間以上ではないかと思う。いや、多分人間があまりにも愚かだから、相対的にそう見えるのかもしれない。

愚連隊恋猫蹴らんとして転ぶ   『両神』

 可笑しい句である。愚かで可笑しみのある動物、それが人間なのだろうか。




64

犬一猫二われら三人被爆せず 

070221

 愚連隊が恋猫を蹴ろうとするくらいはまだまだ可愛らしさもある。しかし、そういう事の程度が昂じると戦争になる。猫を蹴っ飛ばすのと戦争をするのと質の違いはない。猫を蹴っ飛ばすことに大義名分が無いように、どんな戦争にも大義名分はない。イラク戦争を始めたアメリカは猫を蹴っ飛ばそうとして転んだ愚連隊によく似ている。似ているが可愛らしさは少しもない。たくさんの人の命を奪い、自然を大きく壊しているからである。戦争は人間の愚かさの極致である。殊に強大な力を持ったものが自分の利益の為に弱者を攻める戦争は、可愛くも何ともない。

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犬一猫二われら三人被爆せず    『暗緑地誌』

 現在頂いてある生命を大事にすること、そして身のまわりの生命を大事にすること、そこから全てが始まるのではないか。




65

猫や羊を朝日温めて秋はゆく 

070222

 地球温暖化ということがある。最初は地球が単に温かくなることだと思っていた。私は信州の寒い所に住んでいるから、少し温かくなるのも良いかなと思っていた。しかし昨今のテレビニュースなどを見ているとどうやら単に温かくなるというのではないらしい。気象が激烈な状態になるというのである。そう言えば近ごろの気象は極端に揺れる感じはある。去年一昨年の豪雪や寒波、今年の異常に温かい冬、竜巻、台風、洪水などがそうである。もっともっと温暖化が進めば、台風やハリケーンが強烈に荒れ、豪雪や日照り、さらには陸地の水没という事態も実際に起るのだという。これらは全て人間の傲慢から来るのではないだろうか。自然を力でねじ伏せることが出来ると思う傲慢である。その傲慢さの裏に潜んでいるのが人間の限りない欲望である。人間や動物が必要なものを満たし、心豊かに過ごしてゆくために、それほどの物は必要では無い。地球環境を破壊するほどのエネルギー消費は必要ないはずである。

猫や羊を朝日温めて秋はゆく   『東国抄』




66

捨猫鳴く白波は今日も寄せおる 

070223

捨猫鳴く白波は今日も寄せおる    『詩經國風』

 実際、我々は捨猫のようなものである。右も左も分らずにこの世に放り出された捨猫のようなものである。いったい我々は何を規範にして、何を頼りに生きて行けばいいのだろうか。このどろどろとした、目茶苦茶にひっ絡まったような世界で。モラルか宗教かイデオロギーか。しかし見方によってはそれらは全て相対的な価値しかない。国によっても違うし、民族によっても違う。逆にそれらが紛争や戦争の種になっている事実もある。
 少なくとも一つの事は言えるのではないか。我々が頼りにすべきもの、大事にすべきもの、尊敬すべきものが自然であるということは言えるのではないか。私達がそこに根を張り、そこで生を営み、やがてそこに還ってゆくところの自然である。人間と対立した概念としての自然ではなく、生きとし生けるもの全てを含んだトータルな概念としての自然である。
 自然は優しい。少なくとも自分を捨猫のような存在だと感じている者に対しては自然は限りなく優しいのである。この句のように。




67

雨蛙退屈で死ぬことはない 

070224

 ゆったりとした時の流れであって欲しい。何もそんなに急ぐことはない。「狭い日本、そんなに急いで何処に行く」という交通標語があったが、「狭い地球、そんなに急いで何処に行く」という気持ちがある。さまざまな統計的な数字がここ二十世紀から二十一世紀あたりでタンジェントカーブのように急激に上昇しているらしい。気温の上昇、人口、エネルギー消費、種の絶滅数、森林の消滅速度等々である。これらは総て自然と対立しているという意味での人間の成せる業である。つまり突き詰めれば、人間の気持ちが高速廻転を始めてしまって止まらなくなってしまったということである。「人間は地球にとって癌細胞である」という見方があるが、この癌細胞が急激に増殖しているということも言える。
 もっとゆっくりとゆったりと生きましょうよ。

雨蛙退屈で死ぬことはない    『東国抄』




68

猪親子沈黙だけで生きている 

070225

 「沈黙」という言葉が好きである。静けさ、静寂というような言葉より好きである。静けさという言葉は外面的に静かであるという感じがする。それに比べて沈黙という言葉は外面的にも内面的にも静かであるという感じなのである。そしてそこには厚い情のようなものが有るような気がするのである。芭蕉が「静」という字ではなく「閑」という字を使って

閑かさや岩にしみ入る蝉の声

と作ったのも解る気がする。「静かさ」よりも「閑かさ」の方が内面的な静かさをも表現しているように思うからである。しかしさらに「沈黙」という言葉には情がある感じがするのである。この沈黙という質を現代人は忘れてしまっているのではないだろうか。現代人があまりにも痙攣的に突っ走っているのはその所為ではないだろうか。沈黙という、存在の至福である状態を忘れてしまっている所為ではないだろうか。

猪親子沈黙だけで生きている   『海程』2004年2・3月号




69

冬眠の蝮のほかは寝息なし 

070226

 芭蕉の句が出て来たところで次の二句を比較してみたい。

閑かさや岩にしみ入る蝉の声   芭蕉
冬眠の蝮のほかは寝息なし    兜太 『皆之』

 両句とも読者を非常に静かな境地にさせる句である。
 芭蕉の句にはわれわれ人間の日常から静かさの境地に誘い込む求心力がある。人間が自然に触れた時に、その奥に潜む本質的な静かさあるいは沈黙を垣間見させてくれる力がある。
 兜太の句にはそのような過程は無く、ただ事実をポンと提示しているだけである。しかし兜太の句には芭蕉の句に無い温かみがある。芭蕉の句が求道的であり人間中心的なのに対して、兜太の句は、既にそこに居るという感じがあり、したがって、・・中心的ということはない。
 芭蕉は求道者、兜太は存在者という言い方ができないだろうか。




70

夏の猪沈黙の睾確とあり 

070227

 求道ということがある。何故求道しなければいけないのか。何故あるがままではいけないのか。何を求めるのか。求めた先に何があるのか。多分求めた先にはあるがままという事がある。それなら始めからあるがままでいいではないか。そう、始めからあるがままでいい。ただしこれが案外難しい。だからただし書きを付ければ、覚醒を持ってあるがままでいるということになるのではないか。
 人間探究派という言葉がある。兜太の師匠である楸邨、そして草田男、波郷らがこう呼ばれたらしい。「・・・の探求」というとカッコイイものもある。何故ならその探求の先には何か価値あるものがあるかの如き希望があるからである。しかしこれは錯覚である。地平線にいつまでも辿り着けないように希望という奴は常に錯覚である。
 また、芭蕉や蕪村はどこかあるがままではない、という感じがある。一茶はあるがままという感じはあるが、どこか覚醒がない。
 金子兜太は覚醒を持ったあるがままという感じがするのであるが如何であろうか。そして何かを探求するというのでもない。あるがままだからである。そこで彼の俳諧に〈存在具現派〉という名前を考えている。

夏の猪(しし)沈黙の睾(きん)確とあり  『海程』2003年12月号



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