表紙 前ページ 次ページ

〈生の詩人 金子兜太〉 91〜100

番号
覚え書き

日付

91

直感

070321

 早呑み込みして走るというのは欠点であるが、逆に見ればそれは、あまりごちゃごちゃ考えない、あるいは直感力があるという美点でもあるのではないかと自惚れてもいる。例えば、私が俳句を始めた頃にどこかの俳句結社に入りたいと思っていた。私はその頃殆ど俳句の世界を知らなかったのであるし、少し知っている俳句といえば虚子の俳句ぐらいであった。その頃は虚子が好きだったのである。その頃のある日NHKのテレビで金子兜太を見た。金子兜太に関しては殆ど何も知らなかった。しかし直ぐに決めてしまった、「ここに入ろう」と。まさに早呑み込みであるが、直感でもある。顔で決めたと言ってもいい。そしてこの直感は間違っていなかった。知らず知らず俳諧史における一大巨人を選んだのであるから私の直感も大したものである。
 芭蕉の「上に宗因なくんば、われわれが俳諧、今もって貞徳がよだれをねぶるべし」という言い方を借りれば、兜太がいなければ、私はいつまでも虚子の涎を舐っていたのかも知れない。



92

朝日煙る手中の蚕妻に示す

070322

 直感と言えば、私と妻の結婚もそうであったかも知れない。大げさに言えば、会ってから一週間目で結婚することに決めた。会ってから一週間目に妻に承諾を得て、そのまま直ぐに妻の親にも結婚したい旨を伝えた記憶がある。今考えれば、妻の親はよく結婚を許してくれたものだと思う。何故ならその時は私はフーテンのような状態で殆ど何も仕事をしていなかったからである。妻の父親がしぶったことは確かである。「仕事もしてないんじゃなあ・・」という意味のことを言った。今考えれば当然のことである。そして私は結婚したいが為に何でもいいから仕事をしようと新聞販売店に勤めたのであった。その頃の私はそういう精神状態にあったのである。つまりこの世で何か仕事をするということに何の意味も見出せないでいた。だから私の場合は妻との結婚が、この世で意欲を持って生きるということの全ての始まりだったとも言えるのである。まあ、あまり自慢できる話でもないが、良く取れば神話的な話であると言えないこともない。
 神話的と言えば、草田男の次の句などは神話的な雰囲気がある。

空は太初の青さ妻より林檎うく

 当然これは聖書の創世記神話に結びつくイメージであるが、兜太にはもっと東洋的な土の匂いのする神話的な句がある。

朝日煙る手中の蚕妻に示す    『少年』




93

070323

 結婚するためにとりあえず仕事をしようということで、新聞販売店に勤めたと書いたが、この新聞販売店にはその少し以前にお世話になっていたことがあったからである。その頃の私は特にこの世で意欲を持ってやりたいことも無かったし、かといって死と生ということを秤にかければ生きたかったのであるし、だから一つの実験のようなことをしていた。自分の肉体を養うために最小限の仕事だけをして、あとは何もしないでぶらぶらしていようという実験である。そのために新聞の夕刊だけを少しばかり配達する仕事をその新聞販売店でさせてもらっていたのである。
 結果は、そのような生は私には送れないということが解った。私の中の暴れるようなエネルギーはそのような静かな生を送ることを許さなかった。このエネルギーに形を与えることが出来ないで悶々としたような状態であった時に妻と出会ったのである。妻は私の中の渾沌としたエネルギーに基本的な形を与えてくれた。平たく言えば、何のために生きるかという具体の方向が指し示されたと言えるかもしれない。その象徴としての具現が妻であるような気がする。そういう意味でも、妻には感謝してもしきれない。



94

金子皆子逝く 七句

070324

 私と妻は、死んだらその骨を何処かに散骨しようと思っている。海であるとか山であるとかいろいろ考えたが、結局近くの山にすることにした。この山には我が家の荒廃した田圃があるのでその中の見晴らしの良い一枚に撒こうということになった。昨日その場所を特定するために妻と一緒にその場所へ上ってみた。そこは山の斜面にかつて段々田圃が在った所であり、今は荒れ果てて萱や潅木が生い茂っている。殆ど山野と同様なので、ここに散骨しても問題はないだろうと思う。妻と相談して、その中の適当な場所を選んだ。そして目印としてその場所にこれから何か花の咲く木でも植えようかということになった。
 こうして、いざ自分の散骨の場所が決まると、今まで感じたことのない、妙にその山が親しいという感覚が起ってきた。その山ばかりではなく、大地が自然が親しく感じられてきたのは不思議である。結局、自分もこの自然の一部であるという感覚である。
 私が先に死ぬか、妻が先に死ぬか、分らない。しかし、いずれこの山の土に還るのだという感覚、山の木々に囲まれて眠るのだという感覚、木々や花々と呼吸を共にするのだという感覚は、安らぎに似たものがある。
 しかしやはり妻に先立たれるというのは辛いものがあるに違いない。金子先生の夫人皆子様が亡くなられた時の金子先生の句を読むと、やはり、しんしんと胸に迫り来るものがある。

金子皆子逝く 七句   『海程』2006年6月号

春の庭亡妻正座して在りぬ
花を恋い楷を愛して春を眠る
蕾み梨花咲き妻を迎えおり
どれも妻の木くろもじ山茱萸山帽子
亡妻いまこの木に在りや楷芽吹く
妻病みてより大山蓮華咲かずなりぬ
瀬を早み朴の花ゆく帰らない




95

妻俳句

070325

 「妻俳句」ということを考えている。私もそんなに多くの俳人を読んだわけではないが、やはり先ず思い浮かぶのは中村草田男である。あの妻への激しい憧れのような句群である。

妻二タ夜あらず二タ夜の天の川
吾妻かの三日月ほどの吾子胎(やど)すか
妻抱かな春晝の砂利踏みて歸る
妻戀し炎天の岩石もて撃ち
妻のみ戀し紅き蟹などを歎かめや 
妻と來て泉つめたし土の岸
泉邊のわれ等に遠く 死は在れよ   
虹に謝す妻よりほかに女知らず
空は太初の青さ妻より林檎うく
光ある中(うち)妻子と歩め薄氷期

等々、まことに素晴らしい。単なる役割としての夫と妻ではなく。恋人であり、妻であり、時には母であり、永遠の相としての伴侶であり、神話的である。
 兜太の場合の「妻俳句」はどうであろうか。草田男句がどちらかと言えば西洋的・天上的であるのに対して、兜太句は東洋的であり、大地に密着した感じがある。共に神話的であると言えるから、象徴的に言えば、草田男の妻は天使であり、兜太の妻は大地の女神である。
 いずれにしてもこの二人が「妻俳句」の双璧ではないか。句に現れた思いの深さ、質、そして共に神話的である。その俳句の量も二人共に約百句ある。
 明日から兜太の「妻俳句」の若干を鑑賞してみたい。




96

朝日煙る手中の蚕妻に示す

070326

朝日煙る手中の蚕妻に示す   『少年』

 煙るような朝日の中に妻と夫が佇っている。夫が妻に手中の蚕を示した、というのである。東洋的な神話の一場面である。
 夫と妻はほぼ同格であり、これから何かを共に始めようという雰囲気がある。示したものが蚕であることから、何か生産的な生の営みを共に始めようという雰囲気がある。草田男句がどちらかというと、一方的な妻への憧れのような雰囲気があるのに対して、兜太句の方は、共に在るという感じがある。後年、兜太夫妻が共に優れた俳句の作家になったということを考えると、兜太が先に俳句をやっていて、夫人がそれに倣ったということを考えると、象徴的で興味深い一句である。




97

方方にひぐらし妻は疲れている

070327

方方にひぐらし妻は疲れている   『少年』

 いたわる感じである。草田男の妻俳句にはこの「いたわる」感じというのは少ないようである。

足はつめたき疊に立ちて妻泣けり    以下 草田男
時計の下の夏痩妻よ努めなん
健氣さが可愛さの妻花柘榴
妻よなげきに勝てとはいはず寒鯉切る

などを見ても、微妙に兜太句とは違うものがある。兜太句が同じ一つの情の中に在るという感じがするのに対して、草田男句は別々の情の中に居るという感じがするのである。




98

独楽廻る青葉の地上妻は産みに

070328

独楽廻る青葉の地上妻は産みに    『少年』

 若い妻が産みに行く時の夫の感じ方が「独楽廻る青葉の地上」である。とても新鮮なエネルギーが廻っている感じであるが、しかし百パーセントの確実性のない不安もある。この独楽は廻り続けてくれるだろうか、倒れてしまうことはないだろうか。既に独楽は自分の手を離れて廻り始めている。青葉の地上に対する信頼感と廻っている独楽のエネルギーを眺めている感じと自分の手の届かないところで起る運命への不安。




99

茜の冬田誠意の妻に何もたらす

070329

茜の冬田誠意の妻に何もたらす    『少年』

 茜の冬田を前に佇んでいる作者の姿が見える。作者の心情と景色の情感が溶け合い響きあい美しい・・・




100

木の実と共に寝不足の妻の肌明らむ

070330

木の実と共に寝不足の妻の肌明(あか)らむ   『少年』

 自然と妻の同等感というか自然としての妻。その感じがとても情に満ちているし、エロティシズムもある。自然を愛するように妻を愛し、また妻を愛するように自然を愛す。



表紙 前ページ 次ページ