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1011〜1020 |
| 番号 覚え書き 日付 |
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雪の日を黄人 100412 |
雪の日を黄人われのほほえみおり 『黄』 《黄五句》の一句目 俳句というものは或る程度みな自画像のようなものであろうと思うのであるが、この句は自画像らしい自画像で、しかもとても優れているといえるのではないだろうか。雪が降っている日にその雪の白を背景に、「黄人われ」すなわち〈生きものであるわれ〉がほほえんでいる。現在只今の自画像であると同時に、これからもこのように生きていきたいという決意あるいは思想が盛り込まれている気がする。たっぷりとふくよかな映像である。 |
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雪降るとき黄河黄濁を極めん 100413 |
雪降るとき黄河黄濁を極めん 『黄』 《黄五句》の二句目 「白鳥の雪より黄なる・・」という色彩に敏感な作者であるから、雪を背景にした黄河は黄濁を極めるに違いないと言っているのだろう。また、降りしきる雪に増量した黄河の生命力を感じる。 |
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雪の日は黄の字思う黄濁愛す 100414 |
雪の日は黄(こう)の字思う黄濁愛す 『黄』 《黄五句》の三句目 〈禅の十牛図〉というのがある。これは真の自己、あるいは真理を求める過程が十枚の絵に表現されたものらしいが、これはもともとは八牛図であったらしい。それを十一〜二世紀の禅者廓庵が十牛図に革めたらしいのである。八番目の図は〈無〉を表している、要するにそれまでは〈無〉の境地が最高の実現であるとされてきたということである。廓庵はさらにそれに二枚の絵を加えて十牛図としたというのである。この十枚目の絵というのは、既に世界の実相を無であると悟った主人公が再び市場にあるいは世間に戻って行く図である。しかも手に酒瓶を提げているのだそうである。(以上はラジニーシの講話より) |
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黄河そそいで黄海を成す雪の日も 100415 |
黄河そそいで黄海を成す雪の日も 『黄』 《黄五句》の四句目 一般的なメタファーとして河は人生あるいは歴史というものを表し、海は生も死も含む存在全体を表す。この句の場合、「黄河」であり「黄海」であるから、そこに更に〈いのち〉というものの味が添えられている。とても雄大な〈いのち感〉の句であるといえるのではないか。 |
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黄海に黄河から来し魚影泳ぐ 100416 |
黄海に黄河から来し魚影泳ぐ 『黄』 《黄五句》の五句目 この句においては〈いのち感〉ではなくて更に〈いのち〉そのものの具体としての魚が登場してくる。そしてこの「魚影」は自己の影でもある。しかし尚、黄河も黄海も魚(自己)も同じ〈いのち〉の中にあるという感じがある。 |
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大前田英五郎の村黄落す 100417 |
大前田英五郎の村黄落す 『両神』
人のあったかさがあるようなこの句は《赤城山麓大胡 五句》と前書のある一句目の句である。あとの句も並べてみる 英五郎猫抱く妻と夜長かな 義理人情に厚くて侠気に満ちている兜太は世が世なら侠客になっていたかもしれないなどと思った。ちなみに兜太は一茶の次のような句も好きらしい。 罌栗提げて喧嘩の中を通りけり また兜太には次のような句もある。 侠客乗せ銀の電車がわが胸出づ 『蜿蜿』 |
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麻の花黄白に咲き霧の民 100418 |
麻の花黄白(おうはく)に咲き霧の民 『両神』
《中国旅吟 十一句》と前書のある中の一句である。現在私の住んでいる長野市の鬼無里地区でも昔は麻の栽培が盛んだったようである。何でも畳を作る時の大事な糸になったらしい。しかし今では栽培されてはいない。現在日本で栽培されているところがあるのだろうか。とにかく麻はその葉が麻薬の成分を持っているということでいろいろその栽培には制限があるのであろう。私も若い頃は大麻を吸っていたことがある。それは主にインド旅行でのことなので逮捕されることもなかった。しかし帰りの空港での検閲ではリュックのポケットのゴミまで入念に検査された。いかにも大麻を吸っていそうな風体だったのだから仕方がない。大麻でもLSDでもそうであったが、私の場合は経験の最初の頃は幻覚なども見て楽しんだが、何回も重ねているうちに、ただ眠くなるような状態で、それ程欲しいとは思わなくなった。こういうものに対しては私には常習性はないようである。むしろ煙草が止められないのが困りものである。まあ困りものといっても、日に十二三本のことであるから、それ程困っているわけでもないのではあるが。いっそのこと大麻のように国で禁止にしてくれれば諦めもつくだろうにと思う。それにしても、麻の花というのは黄白に咲くのだということを初めて知った。そして「霧の民」。この人達はアメリカインディアンがペヨーテ(幻覚作用があるらしい)を楽しんだように、おそらく大麻を楽しんでいるような気がしてくる。 人顔の麻の花なり咲いた咲いた |
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黄金比麦生の青さ木木の嬉しさ 100419 |
黄金比麦生(むぎう)の青さ木木の嬉しさ 『両神』
この句はただ「黄」という文字が入っているだけだが取り上げた。黄金比とは約1:1.618である。例えば長方形で縦の長さと横の長さが1:1.618であるような長方形は人間の目に一番美しいと感じるのだそうである。
そういわれてみればそうかなとも思う。が、ちがうんじゃないかとも思う。いずれにしろこの黄金比はあらゆるものを数学的な目であるいは科学的な考え方で見極めていこうとする西洋的なものの見方の一つであるだろう。ある言い方をすれば、若々しいものの見方である。ものごとや美というものに対して、そこには何か法則性があるに違いないとする探求心があるからである。あえていえば、愚鈍と老成の中間にあるべき態度といえるかもしれない。 |
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まんさく黄葉頭にしみる頭にしみる 100420 |
まんさく黄葉頭にしみる頭にしみる 『両神』
私の義弟の宏は働き者である。そして自分の視野にあるものの他には殆ど興味が無いのかもしれない。彼は子どもではなくて五十を過ぎた大人なのであるが、ある時その宏が私の家に来て、妻に「蒲公英ってどの花なの」と聞いたことがあるらしい。そのことを妻に聞かされてびっくりするとともに、そういうこともあるかもしれないと思った。私もどちらかというと仕事人間であり、自分の仕事の範囲以外の事物にはあまり興味がないから、もし今のように田舎に住んで俳句をやっていなければ、植物の名前など殆ど憶える気などなかっただろう。今でも人の俳句を読む時には、知らない植物がたくさん出てくる。そういう時にはまた、インターネットの便利さを身にしみて有りがたく思う。この句における「まんさく黄葉」も調べてみた。
私の満作黄葉とのつきあいはこの程度であるのに比べれば、「頭にしみる頭にしみる」とまで書く兜太の自然の事物への親しみの度合いが解るというもの。 |
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凧売りの凧の黄色の渚かな 100421 |
凧売りの凧の黄色の渚かな 『両神』
《バリ島 九句》と前書のある八句目の句である。明るい南国の渚の青と凧の黄色の対比である。
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