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1041〜1050 |
| 番号 覚え書き 日付 |
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青梅落つ三とせの服はたるみつつ 100515 |
青梅落つ三とせの服はたるみつつ 『生長』 昭和十八年(兜太二十四歳)の句。三年間着続けている服がたるんでいるというのは、私などの年代(昭和二十二年生まれ)にとっても懐かしいものがある。一昔前はどんな服でも着られなくなるまで着古すというのが常識であったのではないだろうか。また他人のお下がりを着るというのもある程度当たり前であった。社会全体が貧乏であった所為もあるだろうが、このように物を大事にするということ自体に懐かしいものがある。「青梅落つ」も懐かしい。 井戸をつく音に目覚めし帰省かな |
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家の蠅なおつ 100516 |
家の蠅なおついてくる青田中 『生長』
《千葉の吉植農場に勤労奉仕で泊る・六句》と前書のある一句目の句である。 |
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闇の青葉何処までゆけど闇の青葉 100518 |
闇の青葉何処までゆけど闇の青葉 『生長』
これはトラック島での句である。夜の林の中を歩いている場面の嘱目吟であるような気がする。 |
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海に青雲生き死に言わず生きんとのみ 100519 |
海に青雲(あおぐも)生き死に言わず生きんとのみ 『生長』
これはもう青雲(あおぐも)でなくてはならない。白雲や茜雲などでは駄目。また青雲(せいうん)では妙に臭い意味が付加されてしまうから余計に駄目。青という色の一つの本質を垣間見るような句である。 |
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森の奥パンの実青く焼かれおり 100520 |
森の奥パンの実青く焼かれおり 『生長』
パンノキはクワ科の常緑高木でポリネシア原産。木は高さ15mほどに成長し、葉は大きく7-9裂の掌状。雌雄異花。 葉が大きく、よく茂ることから、熱帯地方では日陰樹として公園や庭園、また街路樹として植えられる。18世紀末にイギリスのウィリアム・ブライによって、黒人奴隷の食料として西インド諸島に導入された。現在でもジャマイカでは食されている。
以上Wikipediaより |
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青草に尿燦燦敵機来る 100521 |
青草に尿(いばり)燦燦敵機来る 『生長』
敵機が来る。闘いをやらねばならぬと勇んでいるふうに感じられるのは「青草に尿燦燦」だからであろう、「青草」だからであろう、「青」だからであろう。 今日は少し時間があるので最近の私の生活ぶりを書いておこう。最近はバタバタと忙しい。まず屋根塗りがある。我家の屋根は昔の茅葺きの屋根にトタンを被せたものである。トタンであるから何年か経つとペンキを塗り直さないといけない。ただペンキを塗るだけならいいが、錆などが出ているから、その錆をワイヤーブラシのようなもので擦り落してから塗らなければならない。また雪国特有のほぼ四十五度に近いような急傾斜の屋根なので、命綱を張ったり、梯を繋いで足場を作るというような面倒なことをしなければならない。だから仕事は速やかには終らない。他にやることもあるし、私の性格もそうだから、ほぼ一年かけて時間の合間合間に塗ろうかと思っている。 |
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墓地見つつ青き蜜柑の昼餉かな 100522 |
墓地見つつ青き蜜柑の昼餉かな 『生長』
これは戦地から帰国する前の句であろう。『少年』のほうに《帰国を前の戦歿者の墓に詣る(二句)》と前書のある 犬は耳垂れ今は草蒸す島の径 というのがあるから、同じ機会の句かもしれない。墓地の辺りに腰をおろして青蜜柑を食べているのだろうか。この青蜜柑は米側から供給品であったのだろうか。分らないが、当時としては貴重品だったのではないか。みずみずしい青蜜柑。しかし、句としてはそれを喜んでいるというふうではなく、どこかぼんやりと事の全体を見ているという雰囲気がある。 |
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野ばらの莟む 100523 |
野ばらの莟むしりむしりて青空欲る 『少年』
これは《富士山麓 三句》と前書のある一句目の句である。じくじくとした心の苛立ちのようなものが上手く表現されているのではないか。青空を欲しているのであるが、二句目 小さく赤い蜘蛛手を這えり糸曳きて と「小さく赤い蜘蛛」が何か心のわだかまりを象徴するように糸を曳いて手を這っているのである。しかし三句目 富士を去る日焼けし腕の時計澄み ではその心のわだかまりがいつの間にか取れていて、その心を象徴するように、日に焼けた腕の時計が澄んでいるのである。「日焼けし腕」というのがこの心理変化の鍵ではないだろうか。 |
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青栗が落ちているなり親指冷ゆ 100524 |
青栗が落ちているなり親指(おゆび)冷ゆ 『少年』
青栗が落ちているというのも自然が発する言葉であるとしたら、親指が冷えるというのも肉体という自然が発する言葉である。このいわゆる大自然と肉体という自然を同等のものに見做すというのが兜太の思想として有ると思う。思想というより、生まれつきの感覚といったほうが的確かもしれない。そういう感覚があるからこういう句を書くのだし、またそういう感覚を確かめるためにこういう句を書くともいえる。こういう感覚は私にはあまり具わっていないのであるが、句を何回も読んでいると「青栗が落ちている」と「親指冷ゆ」が響いている。 |
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積乱雲青田の墓も雲の色 100525 |
積乱雲青田の墓も雲の色 『少年』
一枚の風景画を感じる。青と白そして陰影でできている風景画である。というか、風景を画家が創作する時の感受性で見ている感じといってもいいかもしれない。 |
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