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1071〜1080 

番号
覚え書き

日付

1071

女等青ざめ乳牛はぐくむ森の傍 

100618

女等青ざめ乳牛はぐくむ森の傍     『金子兜太句集』

 〈丹波行 九句〉と前書のある中の一句。作者が受けた印象なのだろうか。その状況などをいろいろ想っているうちに、句とは関係ないが、現在宮崎県で起っている口蹄疫のことなどが頭に浮かんできた。いや、関係ないとは言えないかもしれない。口蹄疫など、何でこんな病気があるのだろうかというほど農家にとっては降り掛かってきた大きな災難である。しかし彼等は何らかの形でこれからも何かを育てて生きていくだろう。何もかもが上手くゆくはずはない。何もかもが上手くゆかないこともある。しかしこの不条理の世界で何かしらをはぐくんで生きてゆくのが人間というものではないだろうか。




1072

青年鹿を愛せり嵐の斜面にて

100619

青年鹿を愛せり嵐の斜面にて     『金子兜太句集』

 逆境に、逆境でも、逆境だからこそ、強く清々しく生きる青年像といえる。これなどもまさしくこの時代の青年兜太の自画像の一枚ともいえるだろう。青年らしいヒロイズムも溢れていて好ましい。




1073

造船の対岸青どろの海への階

100621

造船の対岸青どろの海への階     『金子兜太句集』

 〈尾道〉と前書がある。造船所があってその対岸に青どろの海へのだんだんがあるような風景が見えるが、「青どろの海」というのが何かヘドロのようなもので濁った海を想像させる。工業の発展に伴う環境問題や公害問題を孕んだ風景のようにも見える。なおこの句は1953年頃の句であるが、1956年には熊本県で水俣病の発生が確認されている。




1074

強し青年干潟に玉葱腐る日も

100622

強し青年干潟に玉葱腐る日も     『金子兜太句集』

 『少年』にある「少年の放心葱畑に陽が赤い」が連想される。この青年はこの少年の成長した姿だと受け取るのも楽しい読み方の一つである。また当然作者自身の分身でもあろう。「葱」だとか「玉葱」が共通のキーワードであるが、葱の句には次のようなものもあり、同じような意味合いで楽しめる。

葱坊主童(わらべ)の持ちし土光り        『少年』
霧の葱畑この青(あお)を一会(いちえ)とし    『皆之』
山畑や葱につまずく霧のなか          『東国抄』

 葱というものは題材として面白い。他の作家の葱の句をいくつか

夢の世に葱を作りて寂しさよ      永田耕衣
泊ることにしてふるさとの葱坊主   種田山頭火
葱買ふて枯木の中を帰りけり       蕪村
葱の花ふと金色の仏かな       川端茅舎
葱抜くや春の不思議な夢のあと     飯田龍太
葱坊主どこふり向きても故郷      寺山修司
山の虹へ電線送り葱坊主        村越化石

 そういえば、芥川の『蜘蛛の糸』の原型として「一本の葱」というのがロシアにはあるそうで、『カラマーゾフの兄弟』に出てくる。




1075

電熱器眼ひらく青年達の夜

100623

電熱器眼ひらく青年達の夜      『金子兜太句集』

 昭和三十二年頃の句である。昭和二十八年に国産第一号のテレビ受像機が発売されている。今ではあまり使われないがこの頃に電熱器というものがあった。いわゆる電気コンロである。ニクロム線が渦のように巻かれていて通電するとそれが真赤に熱した。その上に鍋や薬缶などを載せた。今ではカセットガスコンロなどがその用途に使われている。
 真赤に熱っしている電熱器。議論に熱する青年達。そんな夜の光景が目に浮かぶ。「眼ひらく」は「電熱器」と「青年達」への両掛かりだろう。




1076

青年等真水飲む残雪の浜に

100624

青年等真水飲む残雪の浜に      『金子兜太句集』

 聖書占いというのがあるそうだ。当てずっぽうに聖書のページを開き、そのページに書いてある事柄で運勢を読み取るという占いである。それはもちろん本人が読み取るのであるからその読み取り方は本人次第なのである。ドストエフスキーもこの占いを好んだようで、臨終の数時間前にも夫人であるアンナに聖書を開いてもらい、そのページを読んでもらった。それはマタイによる福音書の3章フ洗礼者ヨハネとイエスの会話の部分であったらしい。「・・・されどイエス、答えて彼に言う。今はとどむるなかれ・・・」という部分。ドストエフスキーは「今はどどむるなかれ、つまり私は死ぬということだ」と妻に言ったらしい。
 何故こんなことを書いたかというと、私の現在の兜太句鑑賞のやり方もこの聖書占いということに似ていなくもないと思ったからである。現在は「青」というキーワードで句を探して鑑賞しているのであるが、私はその日どんな句に当るか殆ど予知していない。そしてまた出て来た句を、これは好まないとして避けることはない。
 さて、占いのような気分で今日の句を眺めれば、さしずめこれは大吉の句であると言えるのではないか。




1077

青い汐の日老人犬を馴しならす

100625

青い汐の日老人犬を馴しならす     『金子兜太句集』

 私の娘には感心することがある。動物好きであるということ。そして犬などを恐れないということ。どんな吼えたてられても恐れないのである。犬に吼えたてられると、手を後ろに回してじっとその犬を見ている。するとどういうわけが犬はだんだんおとなしくなってくる。そのうち少しずつ手の匂いを嗅がせたりしながらやがて犬をなつかせてしまうのである。こういう娘の資質は子どもの頃からのものであり、私や妻や親戚を見渡してもあまりない性質である。特に犬嫌いの私の父などは大層感心していたものである。だからその娘は犬を馴らしたり猫と遊んだりすることに飽きないで長時間する。おそらくこのように動物と時を過ごすことが楽しいという人は世の中にはいるのだろう。有名なところでは畑正憲(ムツゴロウ)などもそうであろう。この句の座五「馴らしならす」というリフレインが、そういう人物を想像させるのである。




1078

みんな疲れて青光る道を窓にのぞく

100626

みんな疲れて青光る道を窓にのぞく   『金子兜太句集』

 「青光る道」や「窓」という言葉に象徴性を感じるし、映像も見えてくる。調べてみると「窓」という言葉を使った句は兜太句の中に沢山ある(約七十句)。そのうちのいくつかを抜き書きしてみる。

配水塔氷塊のごとく病む窓に 『生長』
北へ帰る船窓雲伏し雲行くなど 『少年』
雷雲車窓の吾(あ)を明るくしこの午後果つ 『少年』
霧の車窓を広島馳せ過ぐ女声を挙げ 『少年』
車窓より拳現われ旱魃田 『金子兜太句集』
頭上の窓より朝光詩篇はなお暗く 『蜿蜿』
冬の旅立ち醜男醜女(しこおしこめ)の窓越えて 『早春展墓』
船窓に冬の満月落ちもせず  『東国抄』
病窓に見えいて青き踏む二人 『東国抄』
冬近し車窓を過ぎるもの黄昏(たそがれ) 『日常』
夜の車窓を枯草ばかり群れて過ぐ 句集後

 窓という言葉の持つ象徴性を感じるのである。




1079

青蘆うずまる執拗な夢と場末に寝る

100628

青蘆うずまる執拗な夢と場末に寝る   『金子兜太句集』

 「青蘆うずまる執拗な夢」というのは解るような気がする。混沌として絡まっているが確かに青蘆に象徴されるような青々とした意思がうずまっているような夢。捨ててしまえば楽かもしれない。しかしその青蘆は捨てることはできない。何故ならそれは自分が生きている証のようなものだからである。そんな夢と場末に寝るというのである。私は自分の青春時代を思いだしている。




1080

青年とシエパード霧ふる移民の沖

100629

青年とシエパード霧ふる移民の沖    『金子兜太句集』

 この句は作者が神戸にいた時の句である。港の叙情。人間は旅人であるという捉え方は詩的であるが、ゆえに駅や港というものは旅人としての人間の一つの舞台装置として詩的な雰囲気を帯びている。ことに海外に行くであろう港、それも移民として行くともなれば、港はそれだけで哀愁や悲喜様々な感情が流れる舞台であるに違いない。この句においては、港という言葉は使われていないが、そういう場所の叙情を感じる。「霧ふる移民の沖」が何とも叙情である。



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