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〈生の詩人 金子兜太〉 241〜250 |
| 番号 覚え書き 日付 |
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桜の花片が通るよ黒猫は百歳 070825 |
桜の花片(はなびら)が通るよ黒猫は百歳 皆『む』S56〜60
この『むしかりの花』だけでも「黒猫」という言葉の入った句が約五十句ある。そしてこの『むしかりの花』の次の句集名は『黒猫』である。最近出版された皆子さんの遺句集『下弦の月』のあとがきに兜太が「・・昭和四十二年・・転居して愛猫、ゴス、タスを亡くし、シンとゴンを得る・・シンは二十五年間生きて皆子を守る」と書いているがこのシンそしてあるいはゴンも黒猫だったのかもしれない。「黒猫」が登場する最初の句は「木洩陽にいる黒猫の目の国」で、これは昭和四十三年〜四十五年の作であるから時期も一致する。そしてこれらの句を読んでいると、兜太の「・・皆子を守る」と言った言葉が大げさではなく思え、且つこの黒猫の存在感がじわじわと私の中にも入ってくるのである。 |
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静寂音あおいあおい揚羽や山や 070826 |
静寂音あおいあおい揚羽や山や 皆『む』S56〜60
「静寂音」がやはり良いのではないか。例えば「静かかなあおいあおい揚羽や山や」などでもある程度は良いが、自己に引き付けた感じが残り少し臭い。「静寂音」だと自己の影は殆ど無く、この風景とその静かさが只在るという感じになる。存在の不思議さという点で「静寂音」のほうがはるかに勝る。芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」が「閑かかな岩にしみ入る蝉の声」だとしたら台無しであるということと同じかもしれない。この芭蕉句とこの皆子句を比較してみると、芭蕉句のほうは殆ど聴覚から存在に踏み入っている感じで殆ど色彩が無いが、皆子句のほうは視覚性が強く色彩感があり明るい静かさである。「静寂音」と言っているが、それを見ている感じさえある。 |
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てのひらに乗せて麦秋黒猫の顎 070827 |
てのひらに乗せて麦秋黒猫の顎 皆『む』S56〜60
よく女性は大地、男性は天などと譬えられる。あるいは母は大地、父は天などと。また、天に在すわれらが父よだとか、大地の女神などと神を表現することもある。この句などに於ても「麦秋」や「黒猫の顎」と「てのひら」に乗せているのは作者でもありまた大地であるという想念の広がりがある。ごく身近なものへの愛着と同時に自分は大地であるという感覚を持てるのが女性(特に母)ではないだろうか。そんなことを考えた。「麦秋やてのひらに乗せて猫の顎」ではそんなことは考えない。 |
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黒猫の句 070828 |
黒猫の句が沢山あるので並べてみる。
夏星よ黒猫百歳の耳立て 皆『む』S56〜60 どの句もそれぞれみんないい。〈もし・・ったら〉などというのも野暮であるが、もしこの黒猫が金子家に飼われていなかったら、皆子さんの句集もかなり艶を失ったに違いない。それだけこれらの句も含めて「黒猫」の句には艶がある。「黒猫」という言葉自体に、例えば単に「猫」と言うよりも艶がある気がするが、その艶を見出して引き出しているのは作家である。〈艶〉というのは何か。事物と事物の間に〈気〉の流れと言えるようなものが在るときに〈艶〉が在ると言えるのではないか。平たく言えば、事物と事物の交感である。この句達の場合「黒猫」と他の事物達との交感である。そして作家自体にこの気の流れが起らなければ事物と事物の気の流れは掴めない。皆子さんとこの黒猫の間には気の流れが沢山在ったということであろう。平たく言えば皆子さんと黒猫との交感である。 |
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鳩が好き鳩小舎の陽当りの黙など 070829 |
鳩が好き鳩小舎の陽当りの黙(もだ)など 皆『む』S56〜60
この句を見て思い出してしまうのが其角の次の句である。 鳩部屋に夕日しづけし年の暮 どちらの句も〈観照〉という言葉が相応しいが、其角の句がいわば冷たい観照であるのに対して皆子句はあたたかい観照である。其角句が結局、「年の暮」と外して、あるいは対比させて、「年の暮」の季感を表現している、あるいは「年の暮」という一般的概念に頼っているのに対して、皆子句の方は対象そのものに直接踏み込んで観照している感じである。其角句の方が客観的であり情景的であるのに対して、皆子句の方は主観的であり瞑想的である。其角句においては意識が分散するのに対して皆子句は意識が分散しない。其角句において、この「年の暮」という季語があるから俳句である条件を満たしていると言う人もいるだろうし、この「年の暮」が何だか取って付けたように感じる人もいるだろう。 |
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むかしむかし 070830 |
むかしむかしがありぬ令法(りようぶ)の花盛り 皆『む』S56〜60
その〈語り口調〉から、あるいはその〈大地の意識〉から、あるいはその〈頭で作らない作り方〉から、といろいろ説明が出来そうであるが、なかなか鑑賞の焦点が絞られてこない。単純なものほど説明が難しいと言われるがそのとおりだと思う。とにかく事実が何の作意もなく語られている感じがして納得させられているのである。例えば蕪村の「遅き日のつもりて遠きむかしかな」などは、「こうだからこうでこうであるという」三段論法のように納得させられるのであるが、皆子さんのは「こうである」とただ述べているだけで納得させられるのが不思議である。真実とは何かという問題があって、「こうだからこうであり故にこれは真実である」という西洋的なアプローチに対して、「これは真実である、あのような語り口で言うのだから」という東洋的な直感がある。この句の場合は後者であるとしか言いようがない。 |
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蒿雀を追ってみよ友よ失いしもの 070831 |
蒿雀(あおじ)を追ってみよ友よ失いしもの 皆『む』S56〜60 アオジを大辞林で引くと〈スズメ目ホオジロ科の鳥。スズメ大で、背面は褐色に黒色縦斑があり、腹面は黄色。本州中部以北で繁殖し、冬期は暖かい地方に移るものが多い。[季]秋〉とある。 この若さがいい。蒿雀(ヨモギスズメ)という言葉のイメージやアオジ(青鵐)という青の色のイメージから、土ということや理想というもののニュアンスを感じる。読んでいるうちに広い草原を駆けている自分の姿などのイメージが重なって来る。 |
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水際だちし春心経の小石 070901 |
水際だちし春心経の小石 皆『む』S56〜60
作者は水の傍にいるのだろうか、あざやかにきわだった春だと感じている。そして落ちている小石を心経の小石だと感じている。路傍の小石に全宇宙の相を見ることが出来れば、それは究極の意識に近いという。作者はある高揚した気分の中に居るのではないか。同じ小石でも からすからす呑み込んだ小石火打石 皆『む』S37〜42 と比べると、落ち着いてきた作者の日常がその背後にはある気がする。 |
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土佐は不思議天上に豆の花溜める 070902 |
土佐は不思議天上に豆の花溜める 皆『む』S56〜60
夢の質を帯びている。夢の中での事を語っているようだ。そして作者自身も「不思議」と言っている。この「不思議」という言葉を外してしまうと訳が分らなくなる。つまりこの「不思議」という言葉に作者の主体の意識が現れているからで、その作者の主体に同調できるから安心して句の内容を鑑賞できるのである。客観写生であれ何であれ、この主体意識が無いと欠伸の出る句になってしまう。俳句とは限らず私達はこの生の場に於いて、この主体意識を保持していないと、何が何だか分らなくなる。そして最終的にはこの主体とは何かという事になるのではあるが・・・私は誰・・・。 |
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鈴音に鈴重ね咲く花つばき 070903 |
鈴音に鈴重ね咲く花つばき 皆『む』S56〜60
観音あるいは観自在という菩薩名がある。音を観ることができる菩薩すなわち境地である。意識の澄んだ状態に於てはさまざまな感覚が渡り合うということの一つの例である。金子皆子さんの句の場合も視覚と聴覚の渡り合いということが時々見られるような気がする。この句の場合などもつばきの花が咲いているのを鈴の音が鳴っているようだと感覚している。実際に鈴の音のような音が聞えているのかもしれない。そしてこう言われてみると、私などにも椿の花が沢山咲いている状態が見えてくるし、鈴の音が聞えてくるような気がしてくる。 |
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