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〈生の詩人 金子兜太〉 331〜340 |
| 番号 覚え書き 日付 |
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青い彗星てんとう虫這い静かなり 071126 |
青い彗星てんとう虫這い静かなり 皆『黒』平1〜8
何とも美しい透明感のある色彩である。静かな静かな観照。澄んだ意識。 |
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長城より帰りきて白桃を賜う 071127 |
長城より帰りきて白桃を賜う 皆『黒』平1〜8 北京の桃固く野趣ありて甘し 豊かである。この生は豊かである。それは思いがけずに賜ったものだからである。それは固くて野趣があり、そして甘い。 |
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西湖に夕陽小蝦うち上げられ透明 071128 |
西湖に夕陽小蝦うち上げられ透明 皆『黒』平1〜8
文句なく美しい風景句である。 |
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糸瓜の花に飲食涙あたたかし 071129 |
糸瓜の花に飲食涙あたたかし 皆『黒』平1〜8
日常の平凡な時間の流れが実はとても厚いと言っている気がする。とても濃くて厚い時間の流れなので、この時間は其処で今にも止まってしまうのではないか、この時間は越えて行けないのではないかという感覚も起る。しかし時間は動かなくたってかまわない。本質的には時間は動いていないのかもしれない。動かない時間、現在、それを永遠という。わたしたち生きとし生けるものはこの永遠という現在に縛り付けられた存在である。 |
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句集『花恋』 071130 |
これから生前の皆子さん最後の句集『花恋』の鑑賞に入る。この『花恋』は二巻に分れた句集が一つの箱に入っている。その帯に
句集『花恋』は、私の八年になろうとする闘病の生活の或る期間に、書きとめておきました作品を集めたものでございます。いまはしみじみ一集としてみなさまにお読みいただくことのしあわせと感謝をおぼえております。 金子皆子 とある。一、二巻あわせて細かく十二章にわかれているが、私としては句を取り上げる時に大雑把に、平成八年から十六年の間に作句された金子皆子さんの句集『花恋』、という意味で取り上げた句の後に〈皆『花』平8〜16〉と付記することにする。 一九九六年の晩秋の山で転倒する。東京の醫師により右腎裂傷との診断を得て、その治療を受けるが、二ヶ月余の後熊谷の総合病院に入院、悪性腫瘍が発見され、右腎摘出の手術を受ける。手術前の一ヶ月の入院検査期間に想念の漂いを記録したものを、俳句の形式でまとめる。一日も休まず長男の嫁知佳子訪ねてくる。 |
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金婚なり霜月山の斜面の急 071201 |
金婚なり霜月山の斜面の急 皆『花』平8〜16
『花恋』のそして〈紫雲英田〉という章の最初の句である。皆子さん七十一歳金婚の年であるという。偶然にも山の急斜面で転倒したことが癌の発見に繋がっていったのであろうが、『花恋』における皆子さんの嵐のような時間を考えると、この「山の斜面急」という事実が、皆子さんの生涯を通して、これから急峻な山道に差し掛かる時期ということが暗示されているようで、事実の不可思議な符合を思わざるを得ない。 |
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紅葉終る斜面おりてゆき転倒 071202 |
紅葉終る斜面おりてゆき転倒 皆『花』平8〜16
二句目である。〈紫雲英田〉の序文にもあるように、この「転倒」が癌発見の切っ掛けになったようである。そういう意味ではこの「転倒」が幸運だったとも言えるのであるが、いずれにしても皆子さんの生涯に於いて、この「転倒」は事実としても象徴的な意味としても、まさに「転倒」であった。紅葉も終りやがて厳しい冬がやって来る。 |
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茫然自失紫雲 071203 |
茫然自失紫雲英の色の尿恐し 皆『花』平8〜16
三句目である。ストレートにその時の恐ろしさが伝わって来る。「茫然自失」であるとか「恐し」というストレートで生な表現に挟まって「紫雲英色の尿」という言葉がとても印象的である。この句集『花恋』はたくさんの花の名前が出てくる。女性らしく自分の愛の対象の象徴として花がたくさん登場するのであるが、その句集が冒頭三句目に「紫雲英色の尿」という言葉を持つ、すなわち殆ど「紫雲英色の尿」という言葉で始まるというのは、やはりとても劇的であるし、『花恋』という句集名が単なる気まぐれに付けられた名前ではなく、また一つの作られた文学作品というのではなく、作者の人生そのものから生れた、作者の人生そのものに寄り添った、作者の人生そのものの影であるような作品であるというのが予感されるのである。 |
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入院しますか問いかけに花ありて託す 071204 |
二月十六日、S・Eさんの御推薦で埼玉県厚生連熊谷総合病院泌尿器科へ。中津裕臣先生の御指示を受ける。 『花恋』の五句目六句目、中津醫師との出会いである。この中津醫師という存在が皆子さんのこの『花恋』の時期におけるとても大事な存在となっている。人はそれぞれ自分一人で死や病に遭遇し、自分の内なる魂においてこの厳然たる事実に真向かいそして越えていかなければならないのであるが、この誰にでもやって来る運命を越えてゆく時の踏み石とも言うべき存在があり得る。踏み石というよりはむしろ触媒と言った方が良いかもしれない。というのは彼は実際には特別に何の働きかけもしないからである。そこにはただ彼の存在があるのみであるからである。中津醫師は皆子さんにとってはこの一つの触媒として在ったのではないかと私は見ている。この事についてはもう少し掘り下げてみたいと思うが、とにかく今日の句、とくに二句目の「花ありて託す」というのは、皆子さんが中津醫師の中に自分の花、すなわち自分の触媒を見出した瞬間ではなかろうか。 |
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触媒 071205 |
もともと〈触媒〉という言葉が思い浮かんだのは、金子兜太と私の関係に於いてである。金子兜太は私の師であるのであるが、師とは何かということを掘り下げて考えているうちにこの〈触媒〉という言葉に行き着いたのである。たとえば学校の教師などを考えてみれば、彼はその生徒に彼の持つ知識を伝える、というのがその主な役目である。しかし知識を伝えるのが師ではない。しいて言えば師は気を与える。しかし更に掘り下げて見れば、気というようなものは与えたり伝えたり出来るものだろうか。それは多分弟子の方が勝手に受け取るものではないだろうか。そういう意味で師は触媒である。師は弟子の化学反応に何も手出しはしない。ただそこに存在するだけである。弟子は自由に自分の性向に応じて化学反応を起す。このような触媒的な存在が真の師であると私は思っているのであるが、如何だろうか。 | |||
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