| 表紙 | 前ページ | 次ページ |
|
〈生の詩人 金子兜太〉 371〜380 |
| 番号 覚え書き 日付 |
||||||
|
風のなか炎えてひろがる曼珠沙華 080105 |
風のなか炎えてひろがる曼珠沙華 皆『花』平8〜16
曼珠沙華が群生しているような景色としても解るし、皆子さん自信の気持ちが炎えてひろがるようだとしても解るし、風神火神としての曼珠沙華が宇宙にひろがるというイメージでも解る。とにかくこの〈曼珠沙華曼珠沙華〉では曼珠沙華は花であり、自分自身であり、宇宙であり、全てのものの象徴であるからである。 |
|||||
|
足裏炎え炎えて火を踏む曼珠沙華 080106 |
足裏炎え炎えて火を踏む曼珠沙華 皆『花』平8〜16
暴れる火神の踊りというようなものが想像される。またはヒンズーの怒れるカーリー女神の踊りであるとか破壊神シヴァの踊りであるとか、要するに宇宙エネルギーの大いに顕現した形である。そういうものが見えてくるというのも、多分私がこの〈曼珠沙華曼陀羅〉の世界にすでに引き込まれている所為であろう。 |
|||||
|
寄るべなく美しき蝶曼珠沙華 080107 |
寄るべなく美しき蝶曼珠沙華 皆『花』平8〜16
蛾はさも寄るべがあるようにまたは寄るべを求めて、夜は光に固執したり、昼はまたどこかに張り付いていたりする。蝶はどちらかというと、常に中空を居場所としているというイメージがあり、何かに止まるとしてもべたっと張り付くようにではなくチョンという感じで止まる。一般的に蝶は美しく蛾は醜いというイメージがあるが、これはその姿の違いによるだけでなく、その行動から受けるイメージの違いがあるのではないだろうか。人間においてもそうである。世の中にさも寄るべがあるかのごとくに、金や権力やその他さまざまなものに執着していく姿というのは醜いし、逆に全く寄るべとしては考えられないようなもの、例えば愛ということなどに生きて中空に漂っているような姿は美しい。実際少し知性を働かして見れば、世の中に寄るべなんかないというのは自明である。在るとすれば、この〈曼珠沙華〉に象徴される曼陀羅世界が在るのみである。 |
|||||
|
見果てぬものの源流へ旅へ曼珠沙華 080108 |
見果てぬものの源流へ旅へ曼珠沙華 皆『花』平8〜16
曼珠沙華が世界のまた自己自身の象徴であるとしたら、では世界とは何なのか、自己とは何なのか。いやこの二つは当然一つに還元される。つまり自己とは何なのかということで事足りる。私は何か。私は誰か。このことが解れば生老病死における全ての事は解決される。例えば死ということ一つをとってみても、死ぬのは誰か、私が死ぬのであり、では私とは何かという問題に突き当る。あいつが死んだ、あいつがいなくなったと言っても、それは私の前からいなくなったのであり、死んだのかどうかは実際には解らない。あいつは私の前からいなくなった、で、結局私とは何かということである。世界とは何か。世界とは何かと考えている私がいる。世界というのは常に私の思念の対象としてあり、私がいるから世界があり、私がいなければ世界はない。私とは何か。私は誰か。「私は誰か」という問いを発している私がいる。「「私は誰か」という問いを発している私がいる」と意識している私がいる。「「「私は誰か」という問いを発している私がいる」と意識している私がいる」と意識している私がいる。源流へ源流へ、終らない旅である。私は誰か。見果てぬものである。世界は何か。見果てぬものである。死とは何か。見果てぬものである。生とは何か。見果てぬものである。愛とは何か。見果てぬものである。見果てぬ旅である。旅である。見果てぬものの源流へ旅へ曼珠沙華。 |
|||||
|
母恋いの糸とばしいる曼珠沙華 080109 |
母恋いの糸とばしいる曼珠沙華 皆『花』平8〜16
大雑把に二つの道がある。知恵の道と愛の道である。知恵の道においては究極の実在を非人格的なものと見る。愛の道においてはそれを人格として見る。それも大雑把に二つに別れる。男性的なものと見るか女性的なものと見るか。父性的なものと見るか母性的なものと見るか。これらは全て人間のタイプによるものであるから、千変万化した様々な道がありうる。私などはそれを非人格的なものと見る傾向が強いと思っているが、時には父性的なものあるいは母性的なものと見ることもある。つまり一人の人間の中でも時として変化する。キリスト教などにおいてはそれを父性的なものとして教義が成り立っている。父なる神、子なるキリスト、そして精霊、これら全て男性である。教義としてはそうであるが、人間の心はそれで納まりきれないのでマリア(聖母)信仰などというものも出てくる。 |
|||||
|
私の癖 080110 |
親にも言われたし、妻にも現在注意されるし、私自身も気付いている癖が私にはある。それは単にだらしがないのか、あるいは何らかの心理的な特質を現しているのか解らないのであるが、いろいろな場面で戸をぴったりと閉めないという癖である。部屋から出ていく時などにその襖をぴったりと閉めないで殆どの場合に十センチから二十センチくらいは閉め残してしまうのである。たとえば妻は寝室に猫が入るのを好まないのであるが、私が寝室の戸をぴったり閉めないことがあるので、時々猫に入られてしまうので、妻にはそのことでよく注意される。先を急いでいるということか、あるいは単なるだらしなさか、心理学者ならどのように分析するだろうか。 芸術作品などにおいては未完の美ということがある。あるいはどこか隙のある美。あるいは一見下手くそのようであるが親しみのある美というものがある。このような種類の美が実は完璧ではないが完全(全体)に近いのではないだろうか。いやこれは前述の私の癖を弁護したいのではなく、その連想で書いているのであるが、金子皆子さんの句などはこの範疇に入るのではないだろうか。構えが無く、隙だらけのように見え、素人臭く下手くそに見える句さえある。人間というものは完璧なものを求める傾向があるが、これは人間の一つの欠点であると言えないこともない。完璧に近いものに接した時に、人間はそれを称賛するが、そこにはたとえば嫉妬や劣等感のような感情が隠されていたり、パワートリップへの憧れが潜んでいたりするからである。 さて、何日か金子皆子さんの句集『花恋』の〈曼珠沙華曼珠沙華〉という章を一句一句かなり克明に鑑賞してきたのであるが、ここいらで最後の方は端折って次の章に進みたいと思う。これも前述した私の心理癖の現れかもしれない。 |
|||||
|
百日紅祈りのなかに恋人立つ 080111 |
ところでこの〈曼珠沙華曼珠沙華〉という章の最後の部分に※マークに区切られて次の四句が置いてある。
桃の大樹にかくれる家ありて嬉し 皆『花』平8〜16 これは思い出だろうか、あるいは幻想だろうか。いずれにしろ曼珠沙華曼陀羅の夢からは醒めたような趣がある。曼陀羅というのは存在の究極の在り方、あるいは仏の世界を、あるいは神の世界を図によって表現したものであるが、しかしそれでさえも人間の心を投影した夢に過ぎない。この四句も作者の“想い”が産みだしたもののように思えるが、しかしその対象がより人間に近い姿をとっているようで現実味が増している。最後の句などは、作者の愛の力によって結晶化した神が白い姿で立っているような雰囲気がある。 |
|||||
|
温かし山 080112 |
温かし山 これは〈白い花白い秋 主治醫中津裕臣先生に贈る〉と題された章の最初の句である。その間の事情が前説に書かれている。以下。 一九九七年、悪性腫瘍にて緊急右腎全摘の手術を受け、命を取り留めていただきましたが、二〇〇〇年夏、左腎にも腫瘍を見つけていただきました。秋に、幸いにも部分摘出により、再び命を取り留め、左腎臓を助けて残していただけました。厚く感謝申し上げ、入院生活およびその前後、千葉県旭市滞在の日々を拙い作品にいたしました。御恩ある信頼する中津裕臣先生に贈らせていただきます。 〈医は仁術〉という古めかしい言葉が懐かしい。そういう医者にはなかなか出会えない。医者にかかれば、この医者は大丈夫だろうか、いい加減ではないだろうかと疑っている自分がいる。そしてまあまあのところで妥協しているというのが現状である。医は技術であるというのは当然であるが、その前に医は仁術であってほしいものである。仁があれば技は自ずから伴ってくるものだという考え方もある。昨今、医療ミスでのトラブルが多いが、これらも全て仁ということの不足が原因なのではなかろうか。医者も人間だから間違いということも当然あるだろう。しかし、彼がもし愛の質に満ちた医者であったなら、患者も彼のミスを許せるだろう。いやミスだとは思わないかもしれない。信頼できる医者がやったことならそれを受け入れる気持ちが患者にはあるはずである。信頼できる医師、愛の質に満ちた医師は稀である。そういう稀な医師に皆子さんは出会ったに違いない。そして句を贈っている。
|
|||||
|
主治醫の後を追うと決めたり花八手 080113 |
二〇〇〇年四月、主治醫中津醫師千葉県旭市中央病院に御転勤となる 主治醫の後を追うと決めたり花八手 皆『花』平8〜16 私はさいわいにまだ手術を受けるような病気になったことがない。もしそのような病気になったら医師の信頼度はより重要なものになるだろう。ましてやそれが命にかかわるような病気であったら、経済的に許せば当然私もその医師の転勤についてゆきたいものである。「花八手」というのは情的な花というよりどちらかといえば知的なさっぱりした花である。いろいろな事情を総合して主治医を後を追うと決め、また決めたことによるさっぱりと整理がついた気持ちがあるのではないか。
|
|||||
|
我は呆然たり夾竹桃の花冠 080114 |
左腎に腫瘍、発見される 我は呆然たり夾竹桃の花冠 皆『花』平8〜16 夾竹桃の深紅闘うものは何 夾竹桃の花は赤から白までいろいろあるが、二句目で深紅と言っているから深紅であろう。有毒であるらしい。既に右腎全摘出手術を受けている作者である、再び左腎に腫瘍が発見されたときの気持ちである。呆然とした気持ち。まっ赤な有毒な花の花冠。私が闘う相手は何なのか。そもそも私とは何なのか。夾竹桃の深紅が染み入る。
|
|||||
| 表紙 | 前ページ | 次ページ |