表紙 前ページ 次ページ

421〜430 

番号
覚え書き

日付

421

断崖絶壁断崖
絶壁葛子初夏

080225

断崖絶壁断崖絶壁葛子初夏     皆『花』平8〜16

 きっちりと切り取られた景色が見えてきて気持ちの良い句である。断崖絶壁が有り、そこに葛子が立っている、季節は初夏である、という景色である。この「断崖絶壁」は葛子のあるいは作者の心理的なものを言っているのかもしれないが、悲壮感という感じではなく、時の流れの中での一つの切り立った場面という感じで、気持ち良い風さえ吹いているような心持ちもする。「初夏」の所為だろうか。
 ちなみに「葛子」は『海程』の山中葛子さんのことであろうか。




422

精霊と在り山萵苣の花の森

080226

精霊と在り山萵苣(やまぢしゃ)の花の森  皆『花』平8〜16

山萵苣(えごの木)
http://www2.mmc.atomi.ac.jp/web01/
Flower%20Information%20by%20Vps/
Flower%20Albumn/ch2-trees/egonoki.htm
より転載



423

胸の中金色の牡丹滑りゆく

080227

鳩尾に花幻彷徨うことやあり      皆『花』平8〜16
胸の中金色の牡丹滑りゆく          

 理解したり、何かを感じて取り上げたのではない。いや実際この『花恋』において夥しく出てくる花がどうして出てくるのか私は理解していない。単純に、花が好きなんだなあとか、花に感情を移入しやすいのであるなあとか、そんな理解に過ぎないのである。今ふと、この二句を見て連想したことがある。インドのラージャヨガでは、意識の高まりにつれてその意識の各々の中枢を蓮の花に例える。例えるばかりではなく実際にヨギはそれらを見るのだという。意識の中枢は全部で七つあり、これらが背骨に添うようにして並んでいるというのである。その位置は、肛門・生殖器・臍・心臓・喉・眉間・頭の天辺であるというのである。そしてそれぞれの位置(チャクラという)でそれぞれの形の蓮の花が開くということが、その位置の意識を獲得したということであるのである。よく憶えていないが肛門の位置にある蓮の花は二弁であり、頭の天辺で開く蓮の花は千の花びらを持つというのである。このヨギらの目標はすべてのチャクラで蓮の花が開き、そしてどのチャクラにも自由自在に行き来する意識状態を獲得するということであるらしい。このそれぞれの段階の意識の中枢、すなわちチャクラということは、その概念はとてもよく理解できるのであるが、そこで蓮の花が開くというのは象徴としては分かるが、それを実際に見るというのは分からない。
 この皆子さんの句で言っていることは、実際にそのように感じられるというのは、このインドのヨギたちと共通するイマジネーションの力ということなのであろうか。




424

妹のコール清しき石斛の花

080228

妹のコール清(すが)しき石斛(せっこく)の花  皆『花』平8〜16

 




425

大鯛の鱗を落す天空夕焼 

080229

  大鯛を頂き真土の腕上達す
大鯛の鱗を落す天空夕焼       皆『花』平8〜16

 真土さんは御子息であるが、頂いた鯛を捌く腕が上達したというのである。何歳になっても母親は子供の生長が嬉しいものである。そういう誇らしく嬉しい気持ちと天空が夕焼けているということがあっている。まるで天空の夕焼から大鯛の鱗が降ってくるようだ。




426

夫の留守えごの花散る数知れず

080301

夫の留守えごの花散る数知れず    皆『花』平8〜16

 えごの花というのは四日前に出てきた山萵苣の花のことである。このえごの花が夫の留守に無数に散っているというのである。センチメンタルなものを通り越したというか、克服したというか、そういう厚い情感。あるいは、美しき諦念、美しき淋しさとでも言えるような深い情感。私は皆子さんが亡くなられた時の兜太の次の句を思いだした。

瀬を早み朴の花ゆく帰らない

同じような情感の質ではなかろうか。




427

思い出すまでの時間の凌霄花

080302

思い出すまでの時間の凌霄花(のうぜんかずら) 皆『花』平8〜16




428

温かな掌一つずつ流れ星

080303

 充ち足りる交流ありて 四句/2句目
温かな掌(てのひら)一つずつ流れ星   皆『花』平8〜16

 私は身内に統合失調症の患者がいるので、統合失調症の知りあいが多いのであるが、彼らには自殺する人が多い。私の見るところ、もう大分症状も良くなって健康に近くなった人に多いような気がするのである。症状に捕われているときは自殺を考える余裕もないが、ある程度良くなってきてさあ何か社会的な仕事をしたいと思うような時に自殺してしまうのではないかと考えている。この病気の患者には完治ということがなく、多かれ少なかれ病を背負って生きていかなければならないのであるが、だからとてもいわゆる普通の企業で働くことはできない。この病気の人はとてもストレスに弱いのである。特に人間関係のストレスには弱い。無防御に感受性が強く、受けたストレスを解消する術を知らない。だからある程度緩解した患者でも社会との接点は殆ど無いのである。一生病院や施設で暮すか、あるいは自分の尊厳を保つために自殺するかということになるのではないか。
 昨日また一人この病気の友人が死んだ。幸い、私は彼は自殺ではないと思っている。幸い、と表現してしまうことに驚くが、多分彼は心臓病か脳梗塞のようなものではないかと思っている。実際の死因は何かとこの人の家族に聞くのは憚られる風潮がこの病の人には付き纏うので、多分はっきりしたことは知ることができないだろう。彼は体が病弱であり、人懐こく、いわゆる世間の人にはない無防備の素直さがあったような人であった。今日のこの皆子さんの句を見て、彼のことを連想した次第である。




429

野薔薇野薔薇
唐松さまは知佳子の土

080304

 知佳子の両親、秋田の唐松神社詣で
野薔薇野薔薇唐松さまは知佳子の土   皆『花』平8〜16

 この句は少し戻ったのである。私はなるべく一般性のある句を取り上げようと思っているのであり、この句は「知佳子」という家族固有名詞が使ってあるからどうかなと思い取らなかったのであるが、しかし捨てがたいので取り上げた。知佳子さんの育った野の風景が見えてくるし、その土俗的な背景、そして御両親の懐の温かみなどが伝わってくる。傾向として男性というのは、一般的・普遍的・観念的なものから目の前の具体に到るが、女性の特質はその反対のコースを取るのではないか。どちらも是としなければなるまい。




430

何方ですか明日葉に止まる白蝶

080305

何方(どなた)ですか明日葉に止まる白蝶  皆『花』平8〜16

 「誰ですか」あるいは「何処へ行くのですか」という問いが発せられている。白蝶に対して発せられているとも言えるし、「明日葉に止まる白蝶」は背景あるいは配合とみることもできる。いずれにしろ、また意識的無意識的のいずれにしろ、「何処から来て何処へ行くのか」「そもそもこの存在とは何なのか」「あなたはいったい誰なのか」という根源的な問いが、明るい雰囲気の中で発せられている。



表紙 前ページ 次ページ