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461〜470 |
| 番号 覚え書き 日付 |
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酒止めようかどの本能と遊ぼうか 080408 |
酒止めようかどの本能と遊ぼうか 『両神』
この句は痛風抄と前書きのある六句の五句目にある。要するに、酒は痛風に悪いから止めようかと思案している場面である。「どの本能と遊ぼうか」と言っているのが豪快で巨視的なものの見方の表明である。〈神の遊び〉という想念にまで思い到る。しかし内容はそれ程のことはない。私でも思い付きそうなことである。この句の魅力は何といってもその語調の魅力である。言いっ放しの語調。こせこせとしない太ぶりな語調。「爆心地のマラソン」が緊迫したヴァイオリンの音だとすれば、この句は豪放なチェロの音である。 |
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酒止めようかどの本能と遊ぼうか 080409 |
世界の捉え方の一つに〈神の遊び〉という捉え方がある。これはヒンズーのものであるが、とても魅力的な観念である。この世界で起ることは全て神の遊びである。ひいてはこの世界そのもの、この宇宙そのものが神の遊びの一部である。これは〈天地大戯場〉ということと、神という言葉が使ってあるか否かのちがいで、殆ど同じ観念である。何故ならわれわれの本質は神であるに相違ないからである。何事もそうあまり深刻に突き詰めて考えない方がいい。神の遊びに過ぎないのだから。
酒止めようかどの本能と遊ぼうか という句には、そういう大らかで骨太な雰囲気が漂っている。 |
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痛風抄 080410 |
痛風抄(六句)と前書きのある句を並べてみると
痛風のわが家草木ぞうぞう茂る となるが、全体に、このやって来た嫌な痛風という奴と遊んでいる雰囲気がある。闘っているのであるが、それを楽しんでいるという雰囲気がある。「爆心地のマラソン」などでもそうであるが、兜太は本質的に闘士の質を持っているのではないか。闘士は闘うことが楽しいという意味でである。 |
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罪と罰 080411 |
ここでまた横道に逸れる。要するに今は、兜太は負の状況をそのまま正の状況として捉えた句が多いということで、そういう句を見ていこうとしていたのであるが、横道に逸れる。例えば最近では「初花や麻痺の右顔は固蕾」などという顔面麻痺を患った時の秀句を取り上げようと思っていたのであるが、横道に逸れる。横道に逸れると言っても、もう戻ってこない可能性もあるので、くどくどと断っているのである。生というのは何があるか分からない。今日歩いている道も明日は横道に逸れて、その横道が本道になってゆくこともある。しかしまあ断言しておけば、生そのものが断ち切られてしまうことはない。 最近またドストエフスキーを読んでいる。一度高校か大学の時代に読んだのであるが、また読んでいる。殆ど忘れているから新鮮に読めている。今は『罪と罰』を読んでいる。殆ど最後まで読んで、あとはエピローグが残っているだけである。登場人物と別れるのが名残惜しくて最後の方はゆっくりゆっくりと読んでいる。実に重苦しい小説であった。私自身が殺人を犯したような重苦しい気分であった。ソーニャやドーニャという人物が放つ光が無ければ重苦しくて読み切れなかったかもしれない。実際このソーニャという人物に表現された女性像はほぼ完璧に近い理想的なものである。あまりに完全で神話的なほどである。概ねドストエフスキーは女性というものを尊敬しているように思える。彼の小説には卑劣でいやな男が沢山登場するが、例えばこの『罪と罰』ではルージンのような奴であるが、嫌な女性というのは殆ど登場しないのではないか。とにかくこの小説は人間の罪と罰という問題を取り扱っていると同時に、その奥にソーニャに象徴される神への愛というものが提示された作品である。 この人間の罪と罰、そして神の問題、そういうことを暫くの間考察してみたいのである。 |
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白梅や老子無心の旅に住む 080412 |
エピローグを読み終えた。エピローグでもなかなかラスコーニコフの魂の解放はやって来ない。こちらはじりじりとして、「この頭でっかち」などと心の中で叫んでいた。もうドストエフスキーはラスコーリニコフの解放は意図していないのではないかとあきらめたところ、最後の二ページにおいてそれはやって来た。彼の中の何かがほどけたのである。彼が頭の中で考えていた理屈の筋道がカチッと符合したというのではない。理屈そのものが脱落したのだ。ごちゃごちゃとした知識の網の目の隙間から、滔々と広がる愛の海を彼は垣間見たのである。彼はソーニャという人間を通してその海を垣間見た。ソーニャの方も、彼女は最初から愛の権化のような人であったが、人間である以上、女性である以上、彼のこの目覚めによって本当の意味で愛のリラックスということを体験したに違いない。「愛によって彼らは復活した」とドストエフスキーは書いている。殆ど六百ページある本の最後の二ページである。殆ど苦悶の六百ページに対してたった二ページの解放の時である。いやいやこの比率で充分なのだとも思う。真の愛などというものは語られ得るものではないのだ。全ての言葉が終った時に、その余白でのみ暗示しうるものなのかもしれない。ドストエフスキーはこの六百ページを使って、それを重厚に暗示しえたという実感はある。 俳句というものはもっと簡潔に暗示する。あまり簡潔過ぎて殆ど見逃してしまう。ドストエフスキーの六百ページの暗示を見逃す人は少ないだろうが、芭蕉の「古池や・・」の暗示を見逃す人は多いだろう。殆どの人はそこら辺に落ちている小石を蹴っ飛ばすように通り過ぎてしまうに違いない。そこが俳句の劣っているところでもあり、また逆に優れているところでもある。まさに路傍に落ちている小石のようにそれは押し付けがましくなく在るが、それを覗き込んだ人には、そこに宇宙そのものが広がっているという具合にである。 兜太の一番最初に作った句であるという次の句 白梅や老子無心の旅に住む 『生長』 にはドストエフスキーが六百ページを費やして最後に暗示した愛の平安の境地がもっと完全な形で暗示されていると私は思うのであるが皆さんは如何であろうか。確かに俳句は小説の懇切丁寧な親切に比べれば不親切であるとも言えるが、逆に不親切こそが親切だということもある。誤解が生じないからである。多分多くの人がドストエフスキーのごちゃごちゃぐちゅぐちゅとした懇切丁寧さに惑わされて彼が結局何を言いたいかを見逃すことが多いのに比べて、この句は殆ど人を惑わさない。関係ないと思う人はただ通り過ぎるだけである。そういう親切さが俳句というものにはある。 |
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白梅や老子無心の旅に住む 080413 |
罪人ラスコーリニコフはソーニャという窓を通して、愛の海言い換えれば無心の海の広がりを垣間見ることができた。しかしこの物語『罪と罰』ではラスコーリニコフは力を使ってソーニャを覗き込もうとしたことは殆ど無い。ソーニャの方がやって来たのである。この事実はとても示唆的である。愛は強引に奪うことはできないということである。自然は強姦することができないということである。この物語に登場するもう一人の印象的な罪人であるスヴィドリガイロフは自分の魂の救済の為にドーニャを求めた。強姦しようとさえした。そしてドーニャに拒否され結局自殺という破滅に到った。ラスコーリニコフとスヴィドリガイロフという二人の人物を物語の自然な流れの中に登場させ、この二人の運命を描き分けているドストエフスキーの手腕に脱帽するばかりである。 さて皆さんはどうだろうか。何か良きもの、至福の質を持ったもの、を強引に力づくで手に入れたことはあるだろうか。多分ないだろう。絶対にないだろう。手に入れたことがあると思っている人は、その手に入れたものは全く至福の質などを持ってはいない筈である。それは偽物である。偽物でもある程度の錯覚を与えてくれることは確かであり、そして世の中で人々が右往左往しているのは、みんなこの偽物の為であるというのも事実ではある。その極端な例がスヴィドリガイロフであるということは肝に銘じておいたほうがいい。 俳句などにおいても、その極上のやつは、やってくるに違いないと私は思っている。兜太が十八歳の時に作ったという句 白梅や老子無心の旅に住む 『生長』 などはまさにその好例ではないだろうか。殆ど何の気なしに恵のようにやって来た句なのではないだろうか。 |
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白梅や老子無心の旅に住む 080414 |
ラスコーリニコフは愛というものの存在を実感した。しかしこれは一瞥であって彼はさらにそれを血となし肉となす道程を歩まなければならない。だからドストエフスキーがこの物語を次のように締めくくっているのは正しい。
けれども、ここにはもう新しい物語が始まろうとしている。それはひとりの人間が一歩また一歩と再生してゆく物語、一歩また一歩と生まれ変わってゆく物語、ひとつの世界からもうひとつの世界へ一歩また一歩と移ってゆき、これまで全く知ることのなかった新しい現実を知る物語である。それは、勿論、新たな作品の主題となりうるであろうが――しかし、われわれのこの物語は、これで終った。(小泉猛 訳) さて、兜太の「白梅や老子無心の旅に住む」という句に欠点があるとすれば、それは生々しい実感の無さである。愛だとか無心だとかということを実感を伴って表現するのは難しい。愛というものの実感を表現するために、ドストエフスキーは『罪と罰』という長い長い苦悶の物語を書かなければならなかったともいえるくらいである。一方この「白梅や老子無心の旅に住む」という兜太句はどこか残像のような感じ、夢の残像のような感じである。例えば愛というものの一瞥を得たラスコーリニコフの物語が次の世で始まるとすれば、その巻頭に置かれるその物語全体を暗示する短い言葉でありうるようなものであると言える。誤解を恐れることなく乱暴な連想を働かして言ってしまえば、金子兜太の全句業すなわち金子兜太の人生そのものは、ラスコーリニコフの次の物語そのものだ、と言えないこともない。つまり金子兜太の全句業全人生はこの「白梅や老子無心の旅に住む」ということの血肉化であると言えないこともない。 舌足らずな文章でなかなか理解してもらえないかもしれない。そしてまた愛という言葉と無心という言葉の指し示すものが、その最終的な意識のレベルにおいては、同一であるという私の前提は追々に書いていかなければならないことである。また誤解を恐れずに輪廻という事柄についても書いておかなければならないだろう。 |
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輪廻転生 080415 |
輪廻転生という考え方がある。考え方がある、という言い方をするのは、私が輪廻転生を経験したという記憶を持たないからである。しかし私はかなりこの考え方を尊重している。何故ならこの考え方には生と死ということの問題を眺めるにあたってかなり合理的であるからである。どうしてこうもさまざまな意識の状態にある者達が生れて来るか。こういう不平等の問題を説明するには輪廻転生という考え方がもっとも合理性がある。一回こっきりの生と死では、この不平等はとても許容しづらいものがある。経験の記憶がないので、輪廻転生ということを私は主張できない。何故なら基本的に私は自分の経験にあることしか主張しないからである。主張はしないが、その合理性や平等性が好きなのであるし、若干の直感的なものもある。世の中のさまざまな現象はその殆どがぐるぐると円を描くように進んで行くと捉える方が、直線的に進んで行くと捉えるよりも真実に近いのではないだろうか。一つの例を出せば、季節の回りなどが良い例である。年々少しずつ気候の変化はあるだろうがぐるぐると回りながら時間は進んで行く。地球も太陽系も宇宙そのものが回っているように思える。こういうことはつまり、存在の根本的な性質がそういう質を帯びているということから来るのではないだろうか。そういう直感があるのである。 私の人生の中で、自殺という観念を遠ざけてくれているのも実はこの輪廻という直感である。自殺をしてはいけない、と人々は言う。そして、死ぬくらいの覚悟があれば何だってできるよ、だとか、生きていれば楽しいこともあるよ、などという慰めの言葉を言う。実際こういう種類の慰めの言葉が、その言葉を発する人の愛の雰囲気によって効果を発揮することもあるだろう。しかし、例えば『悪霊』のスタヴローギンのように頭脳派で実存的な虚無感に陥った人の自殺を止める効果があるとは思えない。こういう人にとっては次のような言葉が効果があるかもしれない。つまり、自殺は無駄である。死ねると思う事自体が間違っているからである。自殺をすればただ単に生まれ変わるだけである。しかも現在あるよりももっと愚鈍な意識の状態になる。そしてさらに多くの時間を費やして再び辿りつくのは丁度その自殺をしようとした意識の壁である。何度も何度も同じ苦悩を繰り返したい人は自殺をすればいいが、そんなことは嫌だという人はその意識の壁を本日只今乗り越えなければならないのである。必要なのは、ただただ勇気である。 キリスト教は基本的に愛の宗教である。だから愛の道を歩むものには相応しいものがある。しかしその教義は直線的で幼稚である。スタヴローギンの不幸はその土壌にキリスト教的な直線的な世界観しか無かったということではないだろうか。 |
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よく眠る夢の枯野が青むまで 080416 |
よく眠る夢の枯野が青むまで 『東国抄』
まるで芭蕉が転生して発している言葉のようである。または、死が一時的な眠りだとすれば、その眠りの中で言っている言葉のようでもある。芭蕉の最後の句 旅に病んで夢は枯野をかけめぐる と考え合わせているのである。これはもじり(本歌取り)とも言えるが、もじりだとしても、表面的なもじりではなく芭蕉の本質を踏まえた上でのもじりであり、芭蕉の精神を土台にしてそれを継承する形でのもじりである、とさえ言える。つまり芭蕉の新しい物語の序章のようでもある。一つの楽しい想念として、兜太は芭蕉の生まれ変わりだという想念が湧く。こんなことは主張できる性質のものではないが、しかし誰も反論する根拠もないのは事実である。兜太は一茶を高く買っているが、ある意味芭蕉とは対極の在り方である一茶のような出方を今回はしてみよう、ということなのかもしれないではないか。夢のような質を帯びた話ではあるが、夢と現実の区別がつく人などはいない、ということもある。兜太には次のような句もある。海程395 2003/8・9 東国抄175 伊良湖晴れたり白芥子の杜国 句集後 また、次のような句もある。 芭蕉親し一茶は嬉し夜の長し 『両神』 |
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白梅や老子無心の旅に住む 080417 |
テレビ画面では各地で桜が満開の様子が映し出されるこの頃であるが、私の家の桜はまだ咲く気配がない。クロッカスが咲き終り、ヒヤシンスが咲き初め、福寿草や水仙が咲き続けている。木の花では辛夷の花がちらほら咲き出し、庭先にある木蓮の花が蕾んできたところである。桜の木を含めて杏の木や桃の木や梅の木はまだ枯木然として静かに佇んでいる。静かな静かな春の始まりの時間の中に彼ら全ては無心に佇んでいる。そのように感じられるということであろうか。 無心とは何か。そもそも心とは何か。日本語に於ける〈心〉という言葉はその意味に幅があるのではないか。例えば「あの人には心がある」と言う時はハートという意味であり、〈無心〉と使われる時の〈心〉はマインドという意味である。ハートは心臓の位置にあり、マインドは頭に存するともいえる。無心=ノーマインドと置き換えたほうが解りやすい。ノーマインドというのは、頭であれこれ考えない、頭であれこれ悩まない、頭であれこれ企まないということであり、物事に感じるハートの働きが無くなってしまうことではない。むしろ頭の働きが邪魔をしないから、物事を深く感じる作用が純粋になる。無心といっても、頭の働きが無くなって阿呆になるということではなく、頭の働きに振り回されないということで、頭の働きの主人になるということで、むしろ頭脳がより明晰になるということである。より感受性が現われ、より創造的に存在しうるということである。 白梅や老子無心の旅に住む 『生長』 |
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