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491〜500 

番号
覚え書き

日付

491

露舐める蜂よじつくりと生きんか

080514

露舐める蜂よじつくりと生きんか       句集後

 露を舐める蜂に語りかけているということでもあるし、露を舐める蜂のように俺もじっくりと生きたいものだということでもあるし、露を舐める蜂のように皆さんもじっくりと生きんかということでもあるような気がする。前にもどこかで書いたが、一茶の場合の動物に対する目線は、人間と動物と分けた上での上からの目線での喩えや慈しみであるような句が多い気がするが、兜太の場合は、動物と人間は同等の友達のようである句が多いのではないか。狼などの句にいたっては、狼を自分より上の畏敬の対象として扱っているし、頻繁に出てくる猪などの句ではもう猪は自分である。今日の蜂の場合も同等の友達のようである。そしてその態度は自然体である。生れながらに身に染みついているアニミズムと言いたいくらいである。稀有な人である。デルスウザーラやアッシジの聖フランシスを想う。




492

命佳しと鳥翔つ河口の空分けゆく

080515

 「生きる」という言葉の使ってある句を見てきたが、関連して「いのち」や「命」という言葉の使ってある句も見てゆきたい。

命佳しと鳥翔(た)つ河口の空分けゆく   『狡童』

 「河口の空分けゆく」には、未来に向って未知なるものに向って飛翔してゆく、歩を進めてゆく、というニュアンスがある。現在がどういう状態であれ、それをまるごと肯定できなければ未来に向って歩いてゆくことはできない。現在を否定した形での未来志向は必ず失敗する。先ず現在を肯定すること、そうすれば自ずから未来はやって来る。現在ある自分と世界を肯定すること。現在ある命を佳しとすること。それっきゃない。




493

泥濁は生命なり長江の夜長

080516

泥濁は生命(いのち)なり長江の夜長     『両神』

 長江は見たことがないがガンジスは見たことがある。同じようなものであろう。河幅が広く長大で濁っていてゆったりと滔々と流れている。その河辺では人々の様々な生活がある。洗濯炊事はもちろんのこと、灌漑用水でもあり、信仰の対象でもあり、火葬の灰を流すこともあり、時には死体さえ浮いている。人間だけではなく様々な動物や植物の生命の源となっている。生暖かい夏の夜にこの河の岸辺で時を過ごせば、この河、そしてこの河の泥濁は生命だと否応なく感じるだろう。何も小さなことにくよくよすることはない。この大河のように濁りながら大きく流れてゆけばいいのだ。それが生きるということである。
 作者が「泥濁は生命」と敢て言ったのはとてもよく解る。生きるというのは澄むことではなく寧ろ濁ることだからである。濁りの中に身を投じてゆくことだからである。こういう思想が兜太の〈俳句は衆の詩〉であるということを実践してゆく源となっていることは確かである。大乗の思想といったらいいだろうか。しかし一つ付け加えておく。こういうことを書いた作者の眼は澄んでいるということを。




494

生命なり白梅山茱萸に埋れる 

080517

生命(いのち)なり白梅山茱萸に埋れる    『両神』

 「白梅や老子無心の旅に住む」以来、私の中では白梅は老子そして兜太の象徴のような木になっている。白梅だか紅梅だかはっきりしないが「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」などもそういう感じを強めるのである。今まではこの青鮫の句の梅は紅梅が相応しいと思っていた。何故なら青鮫との色彩の対比として紅梅の方が鮮やかであるからである。しかし今日、この梅は白梅でもいいなという感じがしてきた。句柄としては白梅のほうが大きい。色彩感を採るか句柄の大きさを採るかである。結局、単に梅としておいたほうが、白梅とも紅梅とも受け取れて良いということになるのではある。
 今日の句に戻れば、そういう目、つまり白梅は兜太自身の象徴であるという目で見ると、より味わいが深い気がする。夫人の皆子さんの句集『下弦の月』のあとがきで皆子さんの略歴を述べる中で兜太は次のように書いている

昭和四十二(一九六七)年、四十二歳。七月、熊谷の現住所に移る。「土の上に住みたい」「あなたのような人は土の上で暮さないと駄目になる」「人のいのちは土から生れ土に帰る」。こうした皆子の持論が、マンション暮しでもよかろう、と面倒臭がっていた兜太を動かした結果で、熊谷の土地も自分で決めた。

 このような運命の恩寵にも恵まれて、山茱萸に埋もれて生活するような時間がある。夫人との出会い、運命との出会い、土との出会い、全てを含めて生命(いのち)なりと言っている気がするのである。




495

壁にわがいのち影置く霧の夏 

080518

壁にわがいのち影置く霧の夏      『両神』

 ラジニーシは度々孤独(lonliness)と孤(aloness)の違いを言っている。訳が適当であるかどうか解らないが、孤独(lonliness)は何か大切なものを失っている(missing)状態。つまり負の状態、淋しい状態である。孤(aloness)は何も失っているものはなく満ちている状態、充足している状態である。たまたま一人であるが、他者との関係性を失っているわけではない状態である。
 この句は独りであるということを感じるのであるが、それは孤独なのでなく孤であるという感じなのである。独りであるが、充足感があり、あたたかいいのちの存在感があるのである。瞑想的な雰囲気の句である。




496

妻病みてそわ
そわとわが命あり 

080519

妻病みてそわそわとわが命(いのち)あり   『東国抄』

 結婚というものがだんだんと便宜的なものになってきているのではないか。実用的で利用価値があるかないかで捉えられることが多いのではないか。社会的な安定の保証や性の対象の確保や経済的であること等々で捉えられることが多いのではないか。いつの世でもそうであったのかもしれないし、現代のほうがそういう風潮が強いのかもしれない。この句を見て思うのであるが、結婚とは本来、相手の不在が自分の命をそわそわさせてしまうから、共に生きてゆこうというものなのではないだろうか。便宜的なものでもないし、上手くゆかなかったら取り換えればいいというものでもない。




497

百合根食べ谷間の出湯に命惜しむ

080520

百合根食べ谷間の出湯に命惜しむ     『東国抄』

 日本人は温泉が好きだという。何故と聞かれれば、この句の感じが好きなのだ、と答えてもよさそうである。日常とは少し変わったその土地の食べ物を食べたり、景色を眺めたりしながら、じっくりと温泉に浸かり、まさに命をいと惜しむ感じである。私が俳句を始めた頃の句に

あるがままのすべてがいと おしい

というのがある。俳句とはいえないようなものであるが、この句を書いた時、〈愛おしい〉は〈いと惜しい〉であるという言葉の発見に嬉しかった記憶がある。命が愛おしいという気持ちが温泉に入ると日本人の心を浸すのではないだろうか。




498

青い犀もりもりと雲の命よ

080521

青い犀もりもりと雲の命よ       『東国抄』

 これは〈青い犀〉という連作の一つである。その連作は

青い犀漂泊の語の陳(ふる)く鮮(あた)らし
青い犀人の出会いにじやがの花
青い犀放浪の僧浴衣がけ
青い犀転げゆく蝶や石ころ
青い犀もりもりと雲の命よ

である。『東国抄』は兜太七十代後半から八十代にかけての句集であるから、この青春性には驚かされる。この青い犀には若々しいエネルギー、独立独歩の気概のようなものが感じられる。スッタニパータにも「犀の角のようにただ独り歩め」という言葉があるように、この犀というものの象徴性は独立独歩の気概と、またどこまでも歩いてゆくという旅あるいは漂泊ということへの意志ではないだろうか。しかもそれが青い犀であるから、より一層そういうエネルギーの不老不死の永遠性を感じるのである。犀の大きな特徴は一角獣であるということであるが、この一角の向いている先には、あるいはその歩みの道連れとして、もりもりとした雲の命があるのである。これは芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」などの人生の旅の無常観などとは違う肯定的な旅の把握がある。旅ではなくむしろ漂泊であると言っている。生きてあるということは常に鮮らしい漂泊であり、永遠のエネルギーの顕現である。




499

いのち確かに老白梅の全身見ゆ

080522

いのち確かに老白梅の全身見ゆ     句集後

 494でも書いたように、この「老白梅」はもう兜太自身の投影のように私には感じられる。しかし考えてみれば、兜太自身が私が意識しているように意識しているかどうかは解らない。私のような鑑賞は、私自身が作り上げた一つの虚構、あるいは物語、あるいは神話であるかもしれないのである。しかしそれだって構わない。この「生の詩人 金子兜太」を書こうと思った時に、ある意味では現代における一つの神話を書こうと思っていたとも言えるからである。そして事実と神話とを比べてみれば、事実より神話のほうが真実であるということもあるのである。次のような話がある。
 ラームダースという詩人が神話「ラーマーヤナ」の物語を語っていた。彼の語る物語があまりにも魅力的であったので多くの聴衆を魅了した。噂を聞きつけたハヌマーン(ラーマーヤナに登場するラーマの家来の猿)が天国から下りてきてこっそりと聴衆に加わった。ハヌマーンはその語りに大層魅了されたが、ある時一つの事実についての誤認がラームダースにあることに気づき、我慢ならなくなった。それはハヌマーン自身が登場する場面であった。ラーマの妻であるシーターが悪漢ラーヴァナに略奪されてランカ島の宮殿に閉じ込められていた時に、ハヌマーンがシーターを助け出すのであるが、ラームダースはその宮殿の周りには白い花が無数に咲いていたと語ったのである。ハヌマーンが見たのは赤い無数の花であったから、ハヌマーンはラームダースの間違いに我慢できなかったのである。我慢できなくなった彼は立ち上がりラームダースに抗議した。私が事実を知っているのだからお前は間違っている、というわけである。しかし不思議なことに詩人ラームダースは頑として、白い花だと言い張った。怒ったハヌマーンは、それでは天国に居るこの物語の主人公であるラーマやシーターに裁定してもらおうじゃないかと言い、ラームダースを伴って天国に舞い戻り、ラーマやシーターにラームダースの誤りを正してくれと懇願したのである。さてラーマやシーターは何と言ったか。ラーマもシーターも「ラームダースが語っていることは正しい。ランカの宮殿の周りには白い花が咲いていたのだ。お前は悪漢ラーヴァナヘの怒りで眼が充血していたから、白い花が全て赤い花に見えたのだ。」とハヌマーンを諭したのである。
 つまりこの話は、真実と事実の関係を表した一つの例である。神話と歴史的事実の関係を表した一つの例である。こういう例もあるくらいだから、あながち私の態度も間違ってはいない。




500

いのちと言えば若き雄鹿のふぐり楽し

080523

いのちと言えば若き雄鹿のふぐり楽し   句集後

 性に関する事柄を大らかに、開けっ広げに、嫌らしくなく、詩的に表現できた作家は兜太以外にはいないのではないか。このこともまさに俳諧性の顕現の一つであり、俳聖兜太とでも呼びたいくらいの由縁の一つである。いのちと言えば若き雄鹿のふぐり楽し。いのちと言えば=ふぐり。生は性であり、また性は生である。宇宙を見渡してみれば、これは逃れようもない事実であり、そしてそれは本当のところは大らかで美しいはずのものである。性を嫌らしく隠微に忌まわしく放縦にするのも人間であり、また美しく大らかに祝福されたものとして崇敬の念にまで高めうるのも人間である。
 〈生きる〉という言葉、〈いのち〉という言葉の登場する兜太の句を鑑賞してきているが、これが終ったら、次は性器を指し示す言葉の登場する兜太の句を鑑賞したくなった。すなわち〈ふぐり〉〈睾丸〉〈男根〉〈ほと〉〈女陰〉〈摩羅〉などである。



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