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511〜520 

番号
覚え書き

日付

511

萎え摩羅の死者を掘りだす真昼の儀

080605

萎え摩羅の死者を掘りだす真昼の儀    『金子兜太句集』

 「摩羅」とは生のエネルギーの象徴である。「萎え摩羅」とはその生のエネルギーが萎えている状態である。「萎え摩羅の死者」と強く言っている。すなわち生のエネルギーに満ち満ちて生きているのではなく、ただただ肉体を引摺るように生きている状態の人(自分)は死者と同じだと言っているのである。「萎え摩羅の死者を掘りだす真昼の儀」というのが有るとすれば、それはどのようなものであろうか。具体的には言えないが、その質は、実際的に湿った墓穴からスコップで死体を掘りだすような、表面的には無意味な行為に見えるが、意識の飛躍を伴うはずである。
 この句を作ること自体、この創造性に参加すること自体がその真昼の儀だったのかもしれない。




512

秋の海に君ら泳ぐと男根揺する

080606

秋の海に君ら泳ぐと男根揺する      『蜿蜿』

 「摩羅おどらせ君等は駈ける朝の干潟」と似ている。同じ場面かと思うほどであるが、今日の句のほうが諧謔がある。泳ぐなら泳ぐでさっさと泳げばいいじゃないか、何もわざわざ男根を揺することはないじゃないか。実は、そこがまさに男の男としての由縁であり、男の可笑しさであり、また可愛さでもある。何だか知らないが、この男根というぶらぶらとしたものを持たされた男というものの、どこかしら滑稽な在りようである。「秋の海」というものの持つ味と対照的な面白みがある。この「秋の海」が静かな女性に思えてきたりする。




513

孤独のあかん
ぼちんぼこさ
らし裸麦

080607

孤独のあかんぼちんぼこさらし裸麦     『少年』

 今は性器を表す言葉の入った句を年代順に鑑賞しているが、「ちんぼこ」という言葉を忘れていたので、句集『少年』に戻っての鑑賞となった。
 母親は多分農作業に忙しいのであろう。裸のあかんぼがちんぼこをさらして裸麦の畠の傍に放置されている。そういう情景が眼に浮かぶ。辺りには誰もいない。ただ青い青い広い広い空があるだけである。あかんぼは孤独である。ある意味では、この状況は私達一人一人の人間に当てはまる状況かもしれない。ある意味というのは、自我に目覚めたあるいは個我に目覚めた近代人にとっては、というような意味である。私達はこの何の脈絡も節理もないような宇宙に放り出された存在である。近代的な知性にとっては古い神は死んでしまったのである。神は死んだ。私達は何を拠り所にして生きていけばいいのだろう。私達のエネルギーは何処へ向わせればいいのだろう。私達はちんぼこをさらした孤独のあかんぼである。母親は何処へ行ってしまったのか。実存の孤独。




514

雉を食うさね・ちんぼこの区別なく

080608

雉を食うさね・ちんぼこの区別なく     『蜿蜿』

 わたしゃ何でも食いますよ、雉だろうが、さねだろうが、ちんぼこだろうが、区別なんかしやしません、というわけである。この〈まるごといただき〉という態度はまことに見習うべきものでその価値は無量である。私達は常にどこかで、これは良いこれは悪いと物事の存在価値に優劣をつけている。しかし本来存在する物事に優劣などありはしない。そのことは常に心に留めておくべきことであり、詩や俳句などにおいてはその態度を表明することは価値がある。いやむしろ俳諧の本質はそこにある。




515

木登りの陰みえずさびし都心の森

080609

木登りの陰(ほと)みえずさびし都心の森      『蜿蜿』

 金子兜太にはいわば都会のフォーマルな衣装には納まりきらない野性がある。その彼の眼から見れば、木登りをする人もいない都会の森、ましてや木登りをする少女のいない都会の森、ましてやその陰も見えない都会の森、はさびしいのである。いや、そんなことがないのは当たり前のことなのであり、それもちゃんと解っていながら、大真面目にこのように書く。そこのところに諧謔がある。全体に都会の憂愁の雰囲気が流れるが、それを諧謔的に表現している。淋しくて可笑しい。




516

最果ての赤鼻の赤摩羅の岩群

080610

最果ての赤鼻の赤摩羅の岩群(いわむれ)     『蜿蜿』

 ファンタジーの世界である。最近テレビで「ナルニア国物語」を見た。この物語はC・S・ルイスの童話を映画化したものである。この童話は全部で七巻あるがその第一巻の「ライオンと魔女」を映画化したものである。これからも続編が作られるとか聞く。この童話を私は若いころに二回読んだ。そして子どもに妻が読んで聞かせるのを聞いていたので全部で三回触れていたことになる。この童話は子ども達が偶然に魔法の世界であるナルニア国に入り込んでしまって冒険をするというものであるが、要するにそのナルニア国の景色にこの句のような景色がありそうな気がするのである。ファンタジーの世界であるが、「赤摩羅」という言葉がもう一つ味を付け加えている。ちなみにこの句は下北半島の尻屋崎で作られたものらしい。




517

水ふかく映る三日月あおい陰

080611

水ふかく映る三日月あおい陰(ほと)      『暗緑地誌』

 しんとした水底に三日月が映っているという景色が見えるのであるが、それが単なる静かな景色なのではなく、どこか艶めいているのである。もちろんそれは「陰」という言葉が作る雰囲気なのであるが、この自然を艶めいたものとして捉えるということ、あるいは自然を生きもののように捉えるという感性は、やはり兜太に具わっている特性ではあるまいか。




518

陰しめる浴みのあとの微光かな 

080612

(ほと)しめる浴みのあとの微光かな     『暗緑地誌』

 この句は〈古代股間抄〉という連作の中の一句である。性を大らかに謳い上げたこの連作は稀有のものである。何故稀有かというと、例えばこの掲出句のように女性の性器をずばりと書いてしかもまったく嫌らしくなく、むしろ美しい、そういう意味で稀有なのである。こういう感想を持つこと自体が、性というものを浅薄に貶めるようにしか取り上げていない現今のポルノ文化の影響下にあるということなのかもしれないが。だから兜太がこのような原初的な裸の眼を持ち得るということはとても稀有なことなのである。まさに古代の女神が現前しているように感じられる一句である。




519

男根や街の陰部の月ひとつ  

080613

男根や街の陰部の月ひとつ        『暗緑地誌』

 昨日の句では、古代の女神の秘密を示されるようなわくわくする水々しさがあったが、今日の句は、神々のもはや存在しない現代という時代の虚しさ寂しさのような雰囲気である。街の陰部と表現できるような所に月が一つ出ている。そこに佇んで作者は男根を意識している。そういう場面が想像されるのであるが、街の陰部も月も男根も寂しい。




520

火山一つわれの性器も底鳴りて  

080614

火山一つわれの性器も底鳴りて      『暗緑地誌』

 性器が底鳴る、という表現はスラングとしても使えそうである。「おい、俺の性器が底なっているぜ」というように、性欲が高まっているという意味の卑語にも使える。しかしこの句から受ける印象はそういう表面的な意味ではない。火山のエネルギー、すなわち大地のエネルギーと自分の中のエネルギーは一つである、という感得された事実を言っているように感じるのである。若々しい気力体力に満ちた行動派詩人の感性である。



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