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551〜560 

番号
覚え書き

日付

551

狼生く無時間を生きて咆哮

080721

狼生く無時間を生きて咆哮    『東国抄』

 この狼の句が含まれる連作は『東国抄』にあるが、この句集は兜太1995年〜2000年にかけての句で出来ているが、これは兜太76歳から81歳の作となる。兜太の句にはもともとたくさんの動物が登場するが、この狼に関しては他の動物とは違う何かの質があるような気がする。狼が現存しない動物であるということもある。現存はしていないが、“いる”という実感が句によってもたらされている。いないはずのものが“いる”、この二重性が句に登場する狼に特別の神秘的な実在の光を与えているのではないだろうか。この時の兜太と狼の関係は、いわゆる見神者と神との関係に似ている。見神者にとって神は確としているのであり、その眼で見、その手で触り、その体で抱擁するくらいに確かに実在するのである。この狼の連作を作った時の兜太にはそのようなスピリチュアルな眼が拓けたと言う以外にはないのではないか。そういう意味でこの狼は神の化身であると言える。この狼は実在するゆえに「狼生く」であり、この狼はいわば神の化身であるゆえに「無時間を生きて咆哮」するのである。




552

暁闇を猪やおおかみが通る 

080722

暁闇を猪(しし)やおおかみが通る    『東国抄』

 狼の連作の最初の句である。暁の闇。人間の無意識と意識のちょうど中間に位置するまだ明けきらない薄暗い時刻。そこを通常見慣れた猪とともにおおかみが通るのである。この連作では「おおかみ」「狼」「オオカミ」と表記が使い分けられている。それほどの厳密な区別は考えなくともいいと思うが、「狼」だと実体のある獣のようであり、「オオカミ」だと生物学上の種別に思える。この最初の狼が「おおかみ」と表記されているのは、獣としての実体の確かな狼でもなく種別としてのオオカミでもないというニュアンスがあるのではないか。全くの現実でもなく全くの非現実でもない、いわば超現実のしかし確かに在るもの。虚と実の間にある真実。昼間の意識と夢の意識の間にある真実。そういうものとしての「おおかみ」である。暁闇といえるような兜太の意識の中に、このように「おおかみ」はやって来た。




553

暁闇を猪やおおかみが通る 

080723

暁闇を猪(しし)やおおかみが通る    『東国抄』

 人間の意識の中に何か大切なものが通るのは暁闇にたとえられるような意識の時なのではないだろうか。あまりにも目的のある昼間の意識でもなく、全く目的のない眠りこけた意識でもなく、その中間の意識の時である。求め過ぎる昼間の意識でもなく、全く求めない眠りの時の意識でもない、その中間の手放し状態の意識の時である。意識でもなく無意識でもなく、超意識といえるかもしれない状態の時である。インドでは夜明け前と日暮の刻が瞑想に最適な刻とされているが、それはそのような意識に入り易いからではないだろうか。そのような暁闇といえるような意識の刻に、おおかみは通る。何か大切なもの、普段の日常生活の中では忘れてしまっているものの象徴、それがおおかみである。




554

おおかみが蚕飼の村を歩いていた  

080724

おおかみが蚕飼の村を歩いていた    『東国抄』

 連作の二句目である。暁闇というような薄暗いものではなくて、はっきりと周りの状況が設定されている。過去の歴史的な事実としては蚕飼の村を狼が歩くというのはあったことかもしれない。そういう事実を述べているようにも見えるが、私には兜太がこういうことを眼前に見ているように感じられる。それをいかにも「歩いていた」と歴史的な事実の見聞者のような立場で書いているのは、外側の事物に即して書くという俳句的な一つの技法である。はっきりとおおかみが眼前を歩いているといういわば神話的な事実を「蚕飼の村を歩いていた」という歴史的な事実に託して書いているのではないだろうか。いずれにしろ、暁闇というような薄暗い意識ではなく、だんだんとはっきりとおおかみが見えてくる。暁闇の蚕飼の村であるが、だんだん眼が慣れてきたという設定である。




555

おおかみに目合の家の人声  

080725

おおかみに目合(まぐわい)の家の人声(ひとごえ)   『東国抄』

 二句目を受けての三句目である。「目合の家の人声」を配することによって、二句目に続いてさらにこのおおかみが現実味を帯びてきたという感じである。
 このおおかみの連作は大きく三つに区切られている。四句・六句・十句のかたまりである。初めの四句が「おおかみ」の章で、次の六句が「龍神」の章で、後の十句が「狼」および「二ホンオオカミ」の章であるといえる。全体が、それぞれ色合いの違う楽章を持つ、三楽章の楽曲を構成しているようである。そして特にこの最初の四句はそれ自体がはっきりと起承転結を持つ一つの独立した楽曲であるともいえる。その四句を並べてみると

暁闇を猪(しし)やおおかみが通る         起
おおかみが蚕飼の村を歩いていた          承
おおかみに目合(まぐわい)の家の人声(ひとごえ)   
おおかみに螢が一つ付いていた          転結

となる。二句目三句目をともに〈承〉と捉えたが、四句目の〈転結〉に向ってのいわば〈溜〉であるとも私には思える。




556

おおかみに螢が一つ付いていた  

080726

おおかみに螢が一つ付いていた    『東国抄』

 この句はおおかみ四句のクライマックスでもあるし、この狼の連作二十句の中心でもある。更に兜太全句の中でも傑出したものの一つである。これは作られたものではなく、やって来たものであるという感じが強い。一つの啓示である。それも曖昧な示唆のようなものではなく、明らかにはっきりと見せられた、見たという種類のものである。一言で言えば光である。光を見たという感じである。八十歳近い作者。この精気の生々動々と躍動した狼の連作。そしてこの光。ただただ感心するばかりである。




557

おおかみに螢が一つ付いていた  

080727

おおかみに螢が一つ付いていた    『東国抄』

 この狼の連作二十句は言葉遣いが、おおかみ→龍神→狼→二ホンオオカミと変化してゆくのであるが、この流れはごくごく大雑把に乱暴に言えば、抽象的なものから具体的なものへ、あるいは精神から肉体へ、あるいは精妙なものから粗大なものへ、あるいはイデアから個別へ、あるいは観念から実体へという流れである。最初に見た、そしての見たものに肉付けしていったという流れなのではないだろうか。その〈見た〉という感じが一番強い句がこの「おおかみに螢・・」の句なのである。「二ホンオオカミ」は生物学上の絶滅した種としての名であり、「狼」は獣として生存したものの名であり、「龍神」は土俗的な信仰の対象である神の名である。そして「おおかみ」は神の名であると受け取っても良いのではないだろうか。最初に神を見た。最初に福音があった。それからその神話が始まった。その神話がこの連作二十句である。そう私は見ているのであるが、それ故この句はこの連作のクライマックスの句であり、そして中心の句であると思うのである。




558

おおかみに螢が一つ付いていた  

080728

おおかみに螢が一つ付いていた    『東国抄』

 「見た」だとか、ことに「神を見た」などというと、何か抵抗を感じる人もあるかも知れない。しかしそういうふうに表現するより他に上手く表現できるだろうか。狼は既に存在しないのであるし、だから見るはずはないのであるし、だからこの句を含めて一連の句は想像の産物であるということになってしまうのであるが、それにしては印象が強すぎるのである。単なる想像や思考で書いても、このような強い印象を読者に与えることはできない。だから〈霊視〉というような言葉を考えてもいいが、それも訝しく感じる人もいるだろうから同じことである。そういうわけで私はこの「おおかみ」は神格を持った存在であると見る。それを兜太は見たのである。




559

おおかみを龍神と呼ぶ山の民   

080729

おおかみを龍神(りゆうかみ)と呼ぶ山の民    『東国抄』

 この狼の連作の五句目の句であり、また龍神の句群の第一句目の句である。「狼を龍神と呼ぶ」のではなく「おおかみを龍神と呼ぶ」というのが意味があるように思う。おおかみ→龍神→狼というこの連作の流れからいってもそれが必然である。つまり非常に精妙なイデアとしての「おおかみ」がだんだんと具体的な肉体を持った「狼」として肉付けされてゆくという過程の中間として「龍神」が在るのであるからである。
 そのような意識の流れも在るとして、それはさて置いて一般的に「狼を龍神と呼ぶ山の民」として感想を述べてみたい。人間の意識と言葉と事物の関係は重層的で多方向であるから、矛盾なくそういうことも許されるわけである。
 私は山村に住んでいて、畑なども自給程度にやっているのであるが、最近は猿の害が多くて深刻である。ほとんど全ての野菜が猿の食害にさらされる。今の時期は殊にトウモロコシが狙われるから、毎日いつ猿が来るかとびくびくしている。集団でやって来られると作物は壊滅的にやられてしまうのである。いろいろな防御策を取るがそれもあまり効果がなく、トウモロコシ栽培を止めてしまった農家も多い。その他にも聞くところによると鹿や猪やむじな等の食害も多いらしい。私などは食料安保という立場からいっても、自衛隊でも出動させて猿などをコントロールする価値があるのではないかと考えている次第である。
 さて日本から狼が絶滅してしまってから久しい。私は時々考えるのであるが、彼らがまだ生存していたら、こんなに猿がはびこることがあっただろうかと。狼が適当に猿を抑制してくれたのではないだろうか。鹿や猪や熊であっても狼が抑制してくれたのではないだろうか。そういう意味でも狼は龍神と呼ばれるに相応しい存在だったのではないだろうか。狼は人間にとっても恐いものであるに違いないが、また大変大きな益をもたらす動物だったのではないだろうか。私はこんなことを書きながら、実は随分と手前勝手なことを言っていると感じている。何故ならこの自然界に一番はびこっているのは人間だからである。この自然のバランスを一番崩しているのは人間だからである。とにかく、狼が絶滅してしまったことと、猿やその他の動物が人里を荒らすことと、人間の傲慢がはびこっていることとは、その原因が一つであるような気がするのである。おおかみを龍神と呼ぶ「山の民」は謙虚であり、また実は大変な知恵を持っていたとも言えるのではないだろうか。




560

龍神の両神山に白露かな   

080730

龍神の両神山に白露かな       『東国抄』

 自然がきらきらと輝いている。狼を神と呼び、山を神と名付け、畏れ尊敬する気持ち。あるいは露を白露と呼ぶことのように自然に親しみ自然を慈しむ気持ち。このような気持ちがかつて、東洋や世界各地の先住民にはあった。多分これは人類の遺伝子に組み込まれている素質であろう。しかし不幸と言えるのかどうか、自然を征服し屈服させ人間の思うように使おうという傲慢な遺伝子も人類には組み込まれているらしい。この相矛盾する傾向の遺伝子のせめぎ合いが現代の世界が抱える大きな問題である。いずれにしろ、龍神あるいは両神山と表現されたものの背後にある力に人類は勝てっこないのである。何故なら人類そのものが、その大きな力のほんの小さな一部分に過ぎないのであるから。



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