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641〜650 

番号
覚え書き

日付

641

熊ん蜂空気につまずき一回転    

081028

熊ん蜂空気につまずき一回転      『両神』

 昨日の句はアニミズムとしたが、今日の句はアニメではないか。一般的に○○イズムは○○主義と訳されるが、○○そのものと○○主義ということの関係を考えることも面白い。ブッダ(個人名ではなく仏性という意味合い)とブッディズム、実存と実存主義等々である。○○主義というのは、そのものを外側から眺める視点があり、故に説明的であり、理知的であり、大人の態度であるが、逆に知的な理解だけに終ってしまうという欠点を孕んでいるような言葉である。○○そのものは、知的な理解ではなく、そのものを生きているということであり、いわば一つの祝福された状態なのであるが、逆に他者には理解が及ばないという欠点がある。そのものを体得したら、そのものを説明する親切が欲しい。また逆にそのものを知的に理解したら、そのものを成就する情熱がほしいものである。




642

熊ん蜂白髪太郎は刺せない    

081029

熊ん蜂白髪太郎は刺せない       『両神』

 白髪太郎はクスサンの幼虫である。昨日の句と同じように、これも生物学的な事実ではなく、アニメの世界のことであろう。
 ○○イズムと○○そのものとの違いという昨日の考察を続ければ、例えば〈子どもイズム〉というものがあったとする。これは子どもの持つ資質の優れているところを認めて、敢てそれを自分の生の態度に取り入れるということである。大人は子どもそのものには戻れないが、〈子どもイズム〉の態度を取ることはできる。素直で、企みが無く即時的で、自由である、というような態度である。そういう態度を学ぶことによって、本来の〈子ども〉に近づくことが出来るかもしれない。この本来の〈子ども〉というのは人間が成長する過程における子ども時代の子どもではない。図式的に書いてみれば、子ども→大人→〈子どもイズム〉の態度を身に付けた大人→本来の〈子ども〉、ということになる。ややこしいが、こんなことを書いている私の頭の中には、イエスの「子どものようにならなければ天国には入れない」という言葉があるのであるが、この「子どものようになる」ということが、子どもではなくて〈子ども〉になるということである。




643

蜂に刺されて傲慢人間喚きたり    

081030

蜂に刺されて傲慢人間喚きたり       『両神』

 この地球はこの自然は人間だけのものではない。人間が治め支配するためのものでもない。あらゆる生物と同じように人間はそこに生かされている存在であるに過ぎない。この視点を失った時に人間は傲慢になる。「蜂の野郎何で俺様を刺しやがるんだ」というわけである。蜂だって別に刺したくて刺しているわけではない。彼らも自然の法に則って刺しているに過ぎない。止むを得ず刺しているに過ぎない。むしろ刺された人間のほうが、そういう状況を作ったのかもしれない。だからじたばた喚かないがいい。自然の法に従って対処すればいい。
 旧約聖書の創世記に・・・そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 ・・・とある。このような西洋的な自然観そのものに人間の傲慢の種があるともいえる。この一文は「良き王として励めよ」という戒めの言葉として受け取っているうちはいいが、人間は自然に対してとんでものない暴君になってきてしまったきらいがある。




644

春の城姫蜂落ちて水の音    

081031

春の城姫蜂落ちて水の音        『両神』

 頃は春、城のお濠にヒメバチが落ちて水の音がした。静かさの中にもどこかに色香が漂う春の城の情景である。
 また城と姫という言葉の結びつきから、何かしらの城にまつわる物語を感じる。この句は〈城 五句〉と前書きのある連作の一句目であるが、以下がその五句である。

城(五句)     
春の城姫蜂落ちて水の音
夏の城魂はいつも鈍く
秋の城武は小心の極みなりき
冬の城文は自己遁辞なりけり
昼の城生きながらえてやがて離散

 全体に一つの城に関わる物語があり、あるいは城というものに象徴される人間の闘争に関わる物語があり、あるいは歴史的な時間の中で翻弄される人間存在への洞察がある。




645

小田保船渠に蜂を摘みしこと    

081101

〈悼小田保 二句〉の二句目
小田保船渠に蜂を摘(つま)みしこと     『東国抄』

 人を思い出すときに、その人の思想だとか業績だとか、そのようなことによって思い出すことよりも、むしろ日常の小さな仕草などによって思い出すことがある。復活のイエスがその二人の弟子と同行して歩いているのに、その二人の弟子はそれがイエスだとは気が付かない。食事の時にイエスがパンを裂く仕草を見て、はじめて気が付くという話などはそれである。
 この句を書いたときに兜太は小田保という人の小さな仕草を思い出して懐かしんでいるのである。私などはこの仕草に茶目っ気や野性味を感じるが、小田保氏を直接知っている兜太はもっと多くの雰囲気を想っていたに違いない。
 ちなみにこの前書きのある一句目は次である。

句と酒と尾道の緑陰の濃ゆく




646

里から来て山青しとす熊ん蜂    

081102

里から来て山青しとす熊ん蜂      『東国抄』

 「里から来て山青し」としたのは熊ん蜂である。そしてこの熊ん蜂は作者自身でもある。全体に戯けた雰囲気があり、熊ん蜂と作者の共振感、共生感、一体感がある。




647

すずめ蜂の巣を標とし家居せる   

081103

すずめ蜂の巣を標(しるべ)とし家居せる  『東国抄』

 蜂の句を鑑賞している切っ掛けは、この秋にわが家の天井裏にヒメスズメバチが巣を作って、その退治に大わらわとなったことであるが、その時に「こんちくしょう、何で俺様の家にかってに巣なんぞを作りやがって」という意識が無かったとは言えない。しかし考えてみれば、この自然は人間だけのものではない。自然に対して、これは俺のもの、ここは俺の領分と勝手に決めるのは人間だけである。人間同士でも領土争いをやる。もともと自然界では自然の節理にしたがって棲み分けをしているのであるから、ヒメスズメバチにとっては、わが家の天井裏がちょうどいい住み場所に見えたに過ぎないのであり、人間が勝手に決めた所有権などは彼らの自然な頭には無いわけである。
 この句も人間中心に言えば、わが家の傍にすずめ蜂が巣を作った、ということなのであるが、それを作者はさも自然のある部分を間借りしているように書いている。この辺りに兜太の自然に対する思想が出ている気がするのである。




648

すずめ蜂まんさく黄葉にぶら下る   

081105

すずめ蜂まんさく黄葉にぶら下る     『東国抄』    

 自然の一光景であるが、どことなく豊かな感じがある。どことなく遊びごころがあり、どことなくアニミズムの匂いがする。秋の明るい陽の中、黄色っぽいすずめ蜂がまんさくの黄葉にぶら下がって遊んでいる、そんな光景である。




649

眼ぐすりを注すときすずめ蜂直降   

081106

眼ぐすりを注(さ)すときすずめ蜂直降   『東国抄』

 「眼ぐすりを注す」ということと「すずめ蜂直降」ということの微妙な感覚の共通性である。両方とも、ある種の気持ち良さがあるし、その裏には痛みという観念もちらついている。眼ぐすりを注す時に「ずすめ蜂直降」という言葉が作者の中に生まれたのかもしれない。また、眼ぐすりを注す時に、「すずめ蜂直降」と言いながら注すというような人が実際に居そうな気もする。




650

襲いもせず月明に発つすずめ蜂   

081107

襲いもせず月明に発つすずめ蜂     『東国抄』

 人間が彼らを尊重し、その生活圏を脅かさなければ、殆どの野生動物は襲って来ない。熊や蛇や蜂が時々人を襲うということがあるが、これらの原因はその殆どが人間の側の浅知恵が原因である。自然に対する、また彼らに対する配慮が無くて、彼らの生活を脅かすから、襲われるのである。ただし、食べるため等に必要で殺すというのは自然の営みの範囲である。現代は野生動物と人間の棲み分けの秩序が狂ってきている時代であるが、本来、生物は自然に添って生きれば、美しく棲み分けられる、ということを信じたいものである。月明に発つすずめ蜂・・美しい光景ではないか。



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