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731〜740 

番号
覚え書き

日付

731

低山に雪降りわれら蹣跚と

090203

低山(ひくやま)に雪降りわれら蹣跚と    『遊牧集』

 「蹣跚(まんさん)」は、よろめき歩くさま、である。始めて出会った言葉であるが、良い言葉である。よろめいたって躓いたって歩いていることが肝心。人間はもともと行動の衝動があるから生れてきたのであるから、おそらく何もしないで引きこもってしまってはエネルギーが上手くゆかない。蹣跚とでも歩いているほうがいい。そのうちにすたすたと歩けることもあるだろう。




732

山国や飛雪乙女に鳥解体

090204

山国や飛雪乙女に鳥解体      『遊牧集』

 山国である。雪が飛ぶように舞っている。鳥が飛んでいる。事実はこういう景色ではないか。「飛雪乙女に鳥解体」と書かれたことによって、私はそこに光を感じる。屈折したり反射したりした光である。そして飛雪と鳥の衝突、あるいは激しい交感というようなものも感じる。絵画性のある句である。




733

雪の山畑白真ツ平らしかし斜め

090205

雪の山畑白真ツ平らしかし斜め    『遊牧集』

 今は「雪」の登場する句を鑑賞している。季節も冬でありちょうど良いかとも思ったのであるが、そろそろ春の気配がしてきている。今日の句は、およそ140句ある雪の句の92句めの句であるから、あと50句くらいあるわけである。ここは雪国であるし、例年なら三月一杯くらいは雪が充分残っているし、気分的にも雪の句を鑑賞するのに相応しいという計算があったのであるが、どういうわけか今年に限って雪が少なく、例年になく春の近づく気配が早い気がする。思い通りには行かないものである。




734

非常に利己的な善人雪の木を伐りおる

090206

非常に利己的な善人雪の木を伐りおる   『遊牧集』

 「非常に利己的な善人」というのが面白いのであるが、これをあれこれと考察してみても、結局どういう人物か解らないのであるが、感覚的に大雑把に受け取れば、一般的に民衆というのはこういうふうに言えるのではないだろうか。とにかく、そういう人が雪の木を伐っているのであるが、つまりこれは、世界の図そのものであるような気がする。




735

雪の街鋭角に突拍子もない門出

090207

 北海道 四句
雪の街鋭角に突拍子もない門出    『猪羊集』
後頭を雪光刺すは仏の業(わざ)
書を売りしむなしさ白鳥の首しなしな
旅の真昼の湖の白鳥鳴くもこの世

 私達は何の因果も何の脈絡もなくこの世に放り出されたような存在である。自分の存在の拠り所を探ろうとして、書を学んだりもするが、結局そういう所には何もない。この放り出された状態そのものをいわば仏の業であると認識できるかどうかということであろう。




736

東女に熊笹の黄の残る雪

090208

東女(あずまめ)に熊笹の黄の残る雪  『詩經國風』

 『詩經國風』の中の唯一の雪の句である。『詩經國風』という句集は中国最古の詩集である『詩經國風』に心を遊ばせて作った句群と、日本列島に居る作者の現在只今の日常を物語詩風に書いた句群が交互に編まれている句集であったように記憶している。現実を常に物語詩として昇華してゆくことができたら、それは素晴らしいことに違いない。実際、俳句や詩を書くということは、本質的にそういうことであるかもしれない。今日の句の雰囲気も何かの物語の一場面であるという雰囲気がある。




737

弱そうな強そうな陽ざし雪の面に

090209

  北信濃柏原、湯田中にて(四句)
弱そうな強そうな陽ざし雪の面(も)に    『皆之』
雪の中で鯉があばれる寒そうだ
雪の家房事一茶の大揺(おおゆ)すり
蜆汁生きとし生きて諸涙(もろなみだ)

 私は金子兜太の句の鑑賞を続けてはいるが、金子兜太の研究家ではないので、金子兜太が何時頃から一茶に興味を持ち、一茶を自分の一部として意識し出したかは知らないが、この辺りの句の素直で平明で生な感じは既に一茶を取り入れて自分のものにしているとして間違いないだろう。大真面目で可笑しい。いや大真面目だからこそ可笑しくて味がある。かつて北杜夫が茂吉に「お父様の歌は自ずからなる笑いがあっていいですね。でも真面目にお書きになっているのでしょう」と訪ねたら、茂吉は「大真面目だよ」と答えたそうであるが、人生、大真面目でなければ、自ずからなる笑いは出てこない。




738

雪が来てテレビ受像機は白き藻

090210

  赤城山にて(六句)
雪が来てテレビ受像機は白き藻      『皆之』
白頭に雪ふり若きらの疎林
諸伏(もろふし)の枯山もわが声も消えて
瞼撫でつつ夢仕舞いこむ雪の夜半
頂を谷間を俺の魂(たま)ゆく雪
冬の虹あわてふためき酒の仲間

 心許ない頼りどころのない実存感というような雰囲気。昨日の連作の雰囲気とは全く違っている。作家の幅ということであるが、この幅の大きさも兜太の魅力の一部である。




739

赤のまんま末枯れたりすでに雪降りたり

090211

 結局、私達は時間の中で生きている。時間の中で生かされている。時間を生きている。時間を生かされている。時間が即ち生である。時間が止まることを大きな死ともいうし、涅槃ともいう。そして死を司る神であるシヴァがこの時間の輪を回しているという神話も面白い。

今日の一句

赤のまんま末枯(すが)れたりすでに雪降りたり  『皆之』




740

冠雪富士見えたり鳥も賑わえり

090212

  十二月十八日は孫厚武の誕生日なり(唯今四歳)
冠雪富士見えたり鳥も賑わえり     『皆之』

 孫の誕生日を寿いでいる適句である。私は兜太の句や皆子さんの句だけを通してしか知ることができないが、彼や奥さんの人柄の故だろうか、比較的ゆったりと大きく結びついた家族関係を感じる。核家族化が進み、更には配偶者との関係も単なる便宜的なものになりつつある現代において、ある意味では特殊なモデルかもしれないとも思う。
 昨今、派遣切りの問題などが社会を騒がせている。クビを切られると即ホームレスになってしまって、住む所も無く、食べるものも調達できない状態になってしまう人が居るというのである。腹が立つのは当然‘持てる者’の自分勝手なのであるが、やはり不思議なのは、このホームレスになるような人の地縁血縁友人縁というようなものはどうなっているのかということである。答えとしては、そういう関係が薄くなって殆ど無くなっている社会状況で、個人はみなばらばらの意識しか持てないということなのであろうか。個人が個人としての尊厳と自由があり、しかも全体が大きくゆったりと結びついているような社会(家族)が理想ではある。



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