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781〜790 

番号
覚え書き

日付

781

新聞全面落花の写真葦男亡し  

090329

  掘葦男他界
新聞全面落花の写真葦男亡し     『両神』

 〈偶然〉ということを考えている。私なども偶に面白い句が出来ることがあるが、殆どが偶然に出来る。偶然にいくつかの言葉や事物に出会い、それらの組み合わせがぴたっと面白いときに句が出来る。だから句が出来るのは殆ど偶然の出来事である。偶然だけが美しく面白く不思議であると言えないこともない。堀葦男氏が亡くなられた時の新聞全面に落花の写真が載っていたという偶然はやはりとても心に響いてくる。




782

向うから桜や辛夷新庄なり  

090330

  最上川流域(三句)     
向うから桜や辛夷(こぶし)新庄なり      『両神』
大石田斑雪(はだら)葉山に言霊最上川(もがみ)
夏を溢れて鳥の羽根乗せ最上川

 これらは雪の句を鑑賞している時に取り上げた三句でもあるが、何回でも取り上げる。取り上げるといっても別に大したコメントを書くわけでもないのであるが、私自身が何回もお目にかかって味わえる機会が持てたということを恵みとしたい。実際、一回読めばはい終りという読み物が多い中で、何回でも読む価値があり、読む度に新鮮であるというのが、優れた文学であるといえるのではないだろうか。
 芭蕉は、地名があれば季節の言葉はいらない、と言ったそうであるが、この三句などは地名も季節の言葉もたっぷりと入っていて土地や季節の情趣を満喫できる。引っ掛かりのある言葉として、一句目の「向うから」があるが、理屈からいえばこれは作者の移動に伴う相対的な事物の見え方ということになるが、印象としては恵みという感じがある。つまり良き事は自分の方から引っ掴むのではなくて、「向うから」やってくるという一般的な法則である。この「向うから」を入り口にして、たっぷりと最上川流域の春から夏を楽しみ味わっている三句である。




783

早寝しよう里桜咲き満ちたれば  

090331

早寝しよう里桜咲き満ちたれば      『東国抄』

 俳句ではよく〈付き過ぎ〉ということをいう、たとえば「早起きしよう里桜咲き満ちたれば」では付き過ぎとなる。「早寝しよう」くらいで付き過ぎもせず離れすぎもしないでちょうどいい。また、ある言葉(季語など)に関して〈動かない〉などという。この句の場合の「里桜」は動かない。「早寝しよう」と「里桜咲き満ちたれば」は生活の中での嬉しい気分で響き合うのであり、生活の中での嬉しい気分であるから「里桜」が相応しいのである。しかし、こんな風に句を説明しても句の本質は何も言い止めていない、という気持ちが残ることも確かである。




784

花はこれから雪の黒姫山ほんのり藍  

090401

花はこれから雪の黒姫山(くろひめ)ほんのり藍   句集後

 この句は雪の句を鑑賞している時にも出てきた句であるので、今日は句の鑑賞には踏み入らない。ところで、黒姫山というのは日本に三山あるらしい。以下Wikipediaによる

●黒姫山 (糸魚川市) - 新潟県糸魚川市に所在する山。頂上の標高1,121.5m。青海黒姫山ともいい、日本三百名山の一つ。糸魚川市出身の元関脇黒姫山の四股名の由来でもある。奴奈川姫伝説がある
●黒姫山 (柏崎市) - 新潟県柏崎市に所在する山。頂上の標高891m
●黒姫山 (長野県) - 長野県上水内郡信濃町に所在する山。頂上の標高2053m。北信五岳の一つで、日本二百名山の一つ。信濃富士とも呼ばれる。黒姫というお姫様の悲話伝説がある。

 勿論この句における黒姫山は長野県の信濃町の黒姫山であろう。というのも、信濃町は小林一茶の古里であり、一茶と兜太の関係からそう推察する以外にないからである。

黒姫山(長野県上水内郡信濃町)
Wikipedia「黒姫山(長野県)」より



785

桜樹をのぼる蛇と出会いし気力かな  

090402

桜樹をのぼる蛇と出会いし気力かな     句集後

 この桜樹はどちらかといえばもう花の時期を過ぎた葉桜が相応しい。句全体が自然界のエネルギーの表現である気がするからである。インドでは人間の内的なエネルギーの上昇を「蛇が目覚めて昇る」というような表現で表すことがあるが、そういうことを連想させる句である。




786

「常に生きる」ということ落花山覆う  

090403

  暉峻康隆先生亡し
「常に生きる」ということ落花山覆う     句集後

 いい句である。「常に生きる」というのは、この暉峻康隆先生の言葉なのであろうか。含蓄のある言葉である。「君は常に生きているか」と問われて、果してどれだけの人がイエスと答えられるであろうか。「常に生きる」、座右の銘にしたいくらいの良い言葉である。また「落花山覆う」という措辞は追悼句に相応しく、この暉峻康隆先生の大きな人柄を表して巧みである。何日か前の鑑賞で、やはり優れた追悼句で「新聞全面落花の写真葦男亡し」というのがあった。同じような表現が使われているが、受け取る感じは違う。作者と故人との関係、その距離感が書き分けられている気がするのである。兜太には追悼句がたくさんあるが、そういう意味も含めて、みんな優れている。




787

花は葉にダンデイズム愛すべしとも  

090404

 安東次男葬
花は葉にダンデイズム愛すべしとも     句集後

 追悼句に関して昨日も書いたが、この句でも安藤次男氏との距離感が出ている。またダンディズムということと「花は葉に」という言葉の微妙に合い響く感じも楽しめる。




788

医師の誠意に妻支えられ遠桜 

090405

医師の誠意に妻支えられ遠桜      句集後

 この「遠桜」の何ともいえない精妙な働きを味わうべし。




789

ブッシュ君威嚇では桜は咲かぬ  

090407

ブッシュ君威嚇では桜は咲かぬ      句集後

 肯定的な感じがする。肯定的な世界観あるいは人間観が底流にある。私などは殆どの政治家に対しては皮肉な見方しかできない。もちろん比喩的な意味で言うのであるが、桜を咲かせたいと思っている政治家が果してどのくらいいるだろうか。口では何と言おうと、彼らが狙っているのは権力であるとか、そういう種類の腐肉ではないのか。だから「ブッシュ君威嚇では桜は咲かぬ」と言えば、「へへ、あっしゃあもともと別に桜なんか咲かせたいと思っているわけじゃあねえんで」とぺろっと舌でも出されそうな気が私はするわけである。もっとも、これは、ブッシュに言っているようで、実は心ある聴衆に言っているというところに、作者の真意があるのかもしれない。




790

仮寝の夢に桜満開且つ白濁  

090408

仮寝の夢に桜満開且つ白濁       句集後

 この句は2006年7月号の『海程』424号に出ている句である。この前の号からこの号にかけて、夫人の皆子様の死に際しての句とその余韻の中で書かれた句が集中している。この句はそういう流れの中で読まれるべきものであろうし、そのほうが句の味わいもよく解るので、この香り高い句群を書き出したい。

『海程』423号 2006/6 
 金子皆子逝く 七句
春の庭亡妻正座して在りぬ
花を恋い楷を愛して春を眠る
蕾み梨花咲き妻を迎えおり
どれも妻の木くろもじ山茱萸山帽子
亡妻いまこの木に在りや楷芽吹く
妻病みてより大山蓮華咲かずなりぬ
瀬を早み朴の花ゆく帰らない
『海程』424号 2006/7
春の朝陽の額に紅し妻亡きに
仮寝の夢に桜満開且つ白濁
春のこの峡若き日の亡妻(つま)橋の上
野火橋を一気に焼けり人の死も
橋越えて猪去る亡妻(つま)の仕草も去る
優しさに気力健(したた)か涅槃西風
人影も引鶴も橋上のまぼろし



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