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811〜820 

番号
覚え書き

日付

811

火炎木月影しげし壕の口

090501

火炎木月影しげし壕の口     『生長』【トラック島】

 火炎木とはアフリカ原産のノウゼンカズラ科カエンボク属の木である。日本で俗称で火炎木と呼ばれてい鳳凰木はマダガスカル原産のジャケツイバラ科ホウオウボク属の木である。

火炎木
鳳凰木(俗称、火炎木)

以上、説明も写真もhttp://ameblo.jp/hiro-1/entry-10085978549.htmlからのものである。鳳凰木(俗称、火炎木)の方が本当の火炎木よりも火炎のような華やかさがあるらしい。
 この句の火炎木がどちらだろうか。鳳凰木(俗称、火炎木)のほうが相応しい感じはある。




812

浪音の拡がる敵機なき月夜

090502

浪音の拡がる敵機なき月夜     『生長』【トラック島】

 敵が居れば緊張する。敵が去ればリラックスする。戦場であろうがなかろうが、心理的には人生はこの繰り返しであろう。ゆったりとリラックスした時に、浪音の拡がる月夜のような充足感を覚える。それでは、有りえないことだが、敵が初めから全くいなかったとすれば、この充足感は得られるだろうか。否であろう。敵(あらゆる意味の)というものは人生を味わい深くしてくれるものかもしれない。人生というスープの塩味であるという見方もできる。そして、最終的には敵も見方も一つの大海に溶け合って、無限の浪音が拡がっているという状態であろう。煌々と月が照っている。




813

足の方の月夜の小 開けて置く 

090503

足の方の月夜の小 開けて置く   『生長』【トラック島】

 この「」という字が解らない。私の持っている漢和辞典に出ていない。大きくするとという字である。文脈からすると窓というような意味があるのではないかと想像する。トラック島ではどんな住居に暮したのであろうか。南太平洋の真ん中にある島で寒くはないから、簡単な板壁の小屋のようなものであったのかもしれない。閉め切っておくとむしろ暑いから小 を開けておいて寝たのかもしれない。足の方の小 であるから、足の裏で月の光を感じていたのかもしれない。足の裏でものごとを感じるというのは、全身でものごとを感じるということにほぼ等しいのではないか。よく言うではないか、足の裏でものごとを理解せよと。




814

弾跡の池の小暗き三日月

090504

弾跡の池の小暗き三日月     『生長』【トラック島】

 「弾跡の池」とは砲弾の落ちた所が凹んでいて、そこに雨水がたまったような所だろうか。あるいは弾の跡が印されているような池のことだろうか。いずれにしても侘びしい感じの三日月である。「小暗き」というのが作者の気持ちの投影ではなかろうか。




815

褌に月影濃ゆし正月前

090505

褌に月影濃ゆし正月前     『生長』【トラック島】

 「褌に月影濃ゆし」というような表現はまだ硬いとはいえ、後年の

ぽしやぽしやと尿瓶を洗う地上かな      句集後
ばさばさと尿瓶洗えば草ひばり         

という句に見られるような俳諧性あるいは軽みの芽がすでにある。後年の兜太の境地はいのちそして軽みというような言葉で表現しうるかと思うが、そのような資質が既に顔を覗かせている。軽みというのは芭蕉の言った軽みに通じるもので軽いということではない。そしてこの軽みは自ずからいのちということに繋がっていく。




816

あお向きし時月ありぬ一つの月

090506

あお向きし時月ありぬ一つの月   『生長』【トラック島】

 俳句としてのインパクトは弱いが、月の象徴性を考えるとよく解る句であり、むしろ多くの日本人は好きな句であるかもしれない。「月」の部分に「真理」だとか「愛」だとか「理想」だとか「神」だとか、月からそれぞれがイメージできるお好みの言葉を入れてグッと来るものがあるからである。若い句である。




817

トタンの戸パン林には月光満ち

090507

トタンの戸パン林には月光満ち   『生長』【トラック島】

 南方の島の一つの夜の風景が眼前する。「トタンの戸」が効果的である。


http://masashi.blog.mo-hawaii.com/より
パンノキは、クワ科の常緑高木。
ポリネシア原産。木は高さ15mほどに成長し、葉は大きく7-9裂の掌状。雌雄異花。 葉が大きく、よく茂ることから、熱帯地方では日陰樹として公園や庭園、また街路樹として植えられる。18世紀末にイギリスのウィリアム・ブライによって、黒人奴隷の食料として西インド諸島に導入された。現在でもジャマイカでは食されている。

果実は黄色〜黄褐色で直径10-30cm。枝先に2-3個ずつ着生し、成木からは年間50-200個が得られる。

果肉にでんぷんを含み、蒸し焼きや丸焼き、あるいは薄切りにして焼いて食べられる。 また火で乾かしてビスケット状にし、貯蔵する。味はサツマイモに似ているとされる。なお、果肉を葉で包んで土に埋め、発酵させてから食用にもする。これによって長期保存が可能となる。(以上Wikipediaより)

http://gajimaru.blogzine.jp/より



818

月の照る方へ寝返りなお暑し

090509

月の照る方へ寝返りなお暑し     『少年』

 先日、金子先生をテレビで見かけた。NHK教育テレビの番組である。狼の事が現時点での話題になっていたから、かなり前の録画の再放送かもしれない。狼に関する句は『東国抄』に集中して出てくるから、およそ十年余り前の録画なのかもしれない。その番組の中で、金子先生は、俳句は五・七・五が有ればそれでいい。季語を入れなければならないとか、花鳥諷詠でなければならないとか、内容を規制してはいけない、という意味のことを言われていた。五・七・五だといっても金子先生の場合は、五・七・五に近い三句体というような緩い意味で使うから、それは実際は非常に自由な詩空間である。よくは知らないが、こういう見解はいわゆる俳句界全体から見れば、少数派なのかも知れない。一般的にいわゆる俳句というものは、盆栽の世界のようなものだという感じがするのは、内容をこまかく規定し過ぎるからかもしれない。俳句作品を見て、この枝ぶりがいいとか、この苔の生しかたが何ともいえないとか、盆栽の品評会を行っているようなことだけでは、あまりにも俳句の世界が小さくなってきてしまう。
 ところで、今日の句などもいわゆる俳句の目で見れば、「なお暑し」ということで、残暑の句、すなわち季は秋に属する、「月」ということで季重なりということであるが、まあ受け取れる、などというような談議で納得する。季に捕われないで解釈すれば、月に象徴される清明な意識等と、寝返る肉体に象徴される娑婆の暑苦しさ、の対比であり、季節は夏でも秋でもどちらでもよい、というような解釈だって出来るのである。
 そういえば先日のテレビで金子先生のお宅が少し写ったが、いわゆる造られたような庭ではなく、ワイルドに自由に生えているという感じの庭の木々が印象深かった。




819

梅雨の月帰りし帽を書の上に

090510

梅雨の月帰りし帽を書の上に      『少年』

 梅雨の晴間の月であろうか、煌々という感じの月ではない。ああ月が出ているなと感じつつ帰宅して、帽子を書物の上に置いたというのである。梅雨の季節感の中で、書物を心の友とするような日常の一コマ。この句の次に

光ちらす梅雨のともしを消さんとす

という句が置かれている。帰宅して寝るまでの時間を書に親しんだというようなことが推測される。




820

椰子の月水汲みの列樹間縫い

090511

椰子の月水汲みの列樹間縫い    『少年』【トラック島】

 飲料水や炊事洗濯に使う水を井戸まで汲みに行く列であろうか。現在ならばポリタンクのようなものを使えばいいが、当時はどのようなものを使ったのだろうか。バケツのようなものだと口が広くて水がこぼれやすいのでうまくないだろう。口の小さい瓶のようなものが想像されるが、それは金属製のものだったのだろうか、あるいは素焼きの壺のようなものだったのだろうか。そしてこの井戸は日本軍が日本軍のために掘ったものなのだろうか。またその水質は飲料水に適していたのだろうか。トラック島では相当の餓死者が出たらしいが、飲み水のほうは充分にあったのだろうか。食べ物についても、水についても、戦争をするというのはやはり大変な労力である。人間の愚かなエネルギーの浪費を月光が照らしている図であると一口に言ってしまえば、そう言えないこともないが、それでは自分の愚かさを棚に上げてしまうことでもあるし、そもそも歴史というものを根底から否定せざるを得ないというジレンマが起る。悲喜劇の美しい一場面と捉えておこう。(しかしこれもまた偉そうな言いぶりではある)



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