| 表紙 | 前ページ | 次ページ |
|
851〜860 |
| 番号 覚え書き 日付 |
||||
|
月射す峡身熱きとき涙 090616 |
月射す峡身(しん)熱きとき涙 『暗緑地誌』 これは、〈山峡(岳父の死)・十二句〉と前書のある二句目の句である。 父よ父よと夜を渡るや不如帰 〈死の床の兄〉 |
|||
|
みずみずしい電車を出れば月の山 090617 |
みずみずしい電車を出れば月の山 『暗緑地誌』
これは〈那須・五句〉と前書のある五句目の句である。 |
|||
|
よく喋る老婆と子犬白三日月 090618 |
よく喋る老婆と子犬白三日月 『暗緑地誌』
ここ十日ばかり腹痛に苦しめられている。例の持病である。この持病は温めると直るという経験から、この十日間ずっと使い捨てカイロを四枚ばかり、腹のほうに二枚背中のほうに二枚貼っている。それでも間に合わない時は、電気あんかを腹の周りに当てている。そしてそれが気持ち良いのだから、適切な手当てだと思っている。今までの経験だと、こんなやり方で殆ど一日か二日くらいで直ってしまっていたのであるが、今回は長引いている。このまま直らないのではないかという心配まで起るしまつである。やはり老人ということなのであろうか。だいたいこの腹痛は何なのか。今まで何回か医者にも行ったが分からない。体質のような気もする。こういうのは現代の医者よりもむしろ昔の経験豊富な漢方医のほうが分かるかもしれない。とにかく今は喋るのさえおっくうになってくる。今日の句のこのよく喋る老婆は健康そうである。今の私の状態から、そう見えるのかもしれないが、うらやましい。あやかりたいものである。 |
|||
|
白鳥くるか月鈍きとき巨塊 090620 |
白鳥くるか月鈍きとき巨塊 『早春展墓』 鈍い光を放っている月がとても大きく見える。そんな月を背景にして白鳥が渡ってくるという幻想である。・・六歳のガダーダルは田舎道を歩いていた。突然空に黒雲が沸き、その黒雲を数羽の白い鶴が横切って飛翔した。その瞬間に彼は恍惚に落ちて外界の意識を失ってその場に倒れた・・のちのラーマクリシュナの最初のサマーディー(三昧、恍惚境)の経験である。この美に対する感受性の激しさは大したものであるが、同じく美を職業とする兜太にも、この句のようなイメージが沸いたのも不思議ではない。もやもやとした大きなものを横切る白い鳥。 |
|||
|
薄荷積む日を月を積む雨の日は 090621 |
薄荷積む日を月を積む雨の日は 『早春展墓』
薄荷は私の居る所(長野県北部)でも、湿った場所などに群生していることがある。シソ科の植物であのいい香りがする。昔はこの植物を栽培してその成分が食料品やタバコの香料や医薬品として利用されていたらしいが、現在では合成のメントールや輸入薄荷に押されて日本での栽培は激減したらしい。。八月〜十月に淡紫紅色の小さな花をつける。この句は「薄荷積む/日を月を積む/雨の日は」と読むのであろうが、この「積む」は何だろうか。初めは薄荷の出荷の為の積み込み作業のことかとも思ったが、「日を月を積む」という言葉もあるから、そうでもないかなとも思える。しかし、この句は北海道を旅した時の句であり、北海道は日本の薄荷の主要生産地であったらしいから、やはり薄荷の出荷作業である可能性が強いと判断しておく。この北海道の旅の句から印象的なものを少し掲げておく。 あおい熊チャペルの朝は乱打乱打 |
|||
|
蛾や金ぶん穀象もくる底なし月夜 090622 |
蛾や金ぶん穀象もくる底なし月夜 『狡童』
最近、金子先生の新しい句集が出版された。この句集『日常』の後書の最後の部分に・・〈生きもの感覚)を育ててゆきたいとも願う。アニミズムということを本気で思っている。・・とあるが、今日のこの『狡童』の句などはそのアニミズムということの素質は既に充分にうかがえるのではないか。蛾や金ぶんや穀象と自分とが殆どその区別なく、同じ底なし月夜という時空を共有している。虚子の 金亀子擲つ闇の深さかな などと比較してみると、それがよく解る。 |
|||
|
死生観 090623 |
死生観という言葉がある。単に人生観というよりもっと深い死と生の把握から来る言葉のような気がする。もともと死と生はコインの裏表のようなもので、片方なくしてはもう一方も存在しないのであるから、死生観という言葉が深い人生観というような意味で使われるのだろう。しかし、この言葉を死観と生観という二つに分けて考えることも出来るのではないか。そして死観は豊かであるが生観は貧弱であるという人、逆に生観は豊かであるが死観はそれ程でもない人がいるのではないだろうか。前者は私であり、後者は金子先生だというのが私の仮説である。この「生の詩人 金子兜太」という文章そのものが、この仮説に基づいて書き始められたといってもいい。生というものの豊かさを金子先生から学ぶ為に書いているのであり、また折に触れて死というものの本質を示したいというのが、私の意図である。今回出版された金子先生の句集『日常』の後書は、このような話題を話すのに格好のテキストになるかもしれないので、取り上げさせてもらう。この後書は私にとっては味わいも含蓄もあるので、一応全文を掲げさせてもらう。
あとがき 具体的な吟味は明日からとなる。月の句の鑑賞はその間中断となる。 |
|||
|
他界1 舞台裏 090624 |
人の(いや生きものすべての)生命(いのち)を不滅と思い定めている小生には、これらの別れが一時の悲しみと思えていて、別のところに居所を移したかれらと、そんなに遠くなく再会できることを確信している。消滅ではなく他界。いまは悲しいが、そういつまでも悲しくはない。母はまた私を与太と言うことだろう。妻は、「あなた土を忘れたら駄目よ」とかならず言うに違いない。公平は、鬼房は・・・・。
・・・消滅ではなく他界・・・ 他界とは何か。まず思い浮かぶのが、舞台裏のような所である。つまり、この世のありとあらゆる様々な出来事はすべてこの世という舞台に於ける劇である、という考え方である。その役どころ(つまり一生)を終った役者は舞台裏に引き下がって、御苦労さんでしたなどと言いながら、美酒を酌み交わすというような図である。舞台裏という言葉は狭苦しい感じがあるから、むしろ客席あるいは劇場外というほうがいいかもしれない。死後はこの壮大な宇宙劇を眺めたり眺めなかったりする位置に移るわけである。こういったような想念はかなり魅力がある。兜太の 「天地大戯場」とかや初日出づ 『東国抄』 というような素敵な句も、このような想念とつながるだろう。しかし、舞台裏のようなあるいは客席のような所に引き下がった役者は、既にその役どころとして付与された特性を失っているわけだから、・・母はまた私を与太と言うことだろう。妻は、「あなた土を忘れたら駄目よ」とかならず言うに違いない。公平は、鬼房は・・ということにはならないはずである。まあ、かつての劇中での台詞を冗談として言い合うぐらいは無きにしもあらずかもしれない・・・。とにかく、・・他界・・ということに関してまず思い浮かんだのは、人生は宇宙という大劇場を舞台にした劇の一コマであり、死というのはその役を終ってその舞台から、自由でさらに大きな場所に引き下がることである、という想念である。 |
|||
|
他界2 天国と地獄 090625 |
・・・母はまた私を与太と言うことだろう。妻は、「あなた土を忘れたら駄目よ」とかならず言うに違いない。公平は、鬼房は・・・・というような条件が満たされる他界というものの可能性を考えてみた。つまり、この世で個人が持つ特性だとか個別性をそのまま保持しながら死後に行く場所ということである。そして天国と地獄あるいは極楽浄土と地獄というような想念においては、こういうこともあるかもしれないと思った。いわゆる善人は死後天国に行って和気あいあいと美しき事どもを満喫するというような考え方である。悪人は天国には行けない。なぜなら各々がその特性を保持しているわけだから、悪人は悪人としての特性を保持しているわけで、もし悪人も天国に入れるのだとしたら、その天国はもはや和気あいあいなどはしていないだろうし、とても天国といえるような代物ではない。極端にいえば、ヒトラーとアンネ・フランクがその特性を保持したまま同席するような天国はないだろうということである。そういうわけでヒトラーはまあ地獄に行ってもらうとしても、疑問は残る。人間(取りあえず、ここでは主に人間について考える)を悪人と善人にはっきり区別できるものだろうか。悪だけでできている人間はいないだろうし、善だけでできている人間もいないだろう。ヒトラーにしたって、僅かながらも女性への愛があったのだから、わずかながらの善性もあったのだろう。それではパーセンテージでこの判別はなされるだろうか。51パーセントの善と49パーセントの悪を持っていると判断されたら、その人は天国へ。その逆だったら、はい地獄へ。だいたい誰が判断するのか、閻魔様かピーターか。それともまだ地上には存在しないものすごく精巧なコンピューターか。こういうふうに考えていると、どうもこの天国や極楽浄土と地獄というような想念は子供じみてマンガチックである。結論としては、この世での特性をそのまま保持しながらの他界するという考え方には無理がありそうだ。(天国と地獄というようにしないで、この世のそっくりさんが善も悪もそのままに存在する他界というのはどうか。考えることさえ草臥れて混乱する。) |
|||
|
他界3 輪廻転生 090626 |
輪廻転生という思想は比較的に合理性があり平等感もあって好きな思想である。しかし、こういうものが有るかどうかは、見たわけでも知覚したわけでも記憶しているわけでもないから、解らない。しかし、有ると認めてもよい、有る可能性はある、この生の不可思議なからくりの中では有るかも知れないという程度のことはある。いやむしろ有ると仮定して物事を眺めると納得できることが多いともいえる。たとえば、あらゆる面での人間が生まれながらに背負っている差の問題である。生まれながらにたくさんの恵まれた美質を持った人、生まれながらにとても不利な質しか与えられなかった人、肉体面や精神面や環境面やその他もろもろの面において現れるこのような差の不公平は、輪廻転生という思想によってしか説明がつかないのではないか。人間はその生において与えられた質を受け入れて十全に生きることによって、さらに次の生によって次のステップである質を与えられるというような考え方である。生まれながらに優れた質を付与された者は、例えば他者に対して傲り高ぶらない訓練をするというような機会が与えられるわけだし、逆に劣った質に生まれたものは他者に対して卑屈にならない訓練の機会が与えられているわけである。一つの生は一つの機会に過ぎないというわけである。この輪廻転生という考え方が比較的に大きいと思うのは、これが人間にあてはまるだけでなく、あらゆる意識の顕現の状態である動植物や土くれの類までその適用範囲が広げられるかもしれないということにもある。この輪廻転生も・・消滅ではなく他界・・ということに当てはまる。この輪廻転生における他界は蜿蜿と繰り返されるわけであるが、そのことが逆にこの思想の不自由さや草臥れる感じを引き起こすのであるが、しかしこの思想では、そのことに対しての解決まで用意してあるところが素晴らしい。いろいろな表現があるが、つまり‘解脱’ということである。完全なる無欲になった者、無欲でありたいという欲からも無欲になった者だけが達する状態である。この輪廻転生の限りない鎖の輪からも自由になるという最終的な悟りの状態である。‘大きな死’ともいうし‘涅槃’ともいうこの状態においては、輪廻そのものから外れてしまう、あるいは輪廻そのものが自己の一つの微細な部分であるように感じられる状態、すなわち自己が宇宙そのもの、存在そのものであるような状態である。‘汝はそれである’という状態である。 | |||
| 表紙 | 前ページ | 次ページ |