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921〜930 

番号
覚え書き

日付

921

初夏の月放ちてくちびる山幼し

100107

 然別湖
初夏の月放ちてくちびる山幼し     『東国抄』

 然別湖の近くに「くちびる山」という名の山があるのであろう。この「月」がこの「くちびる山」がふと発した言葉のような印象を受ける。「初夏」という季語や「幼し」という言葉も相俟って、全体に若々しい自然の精霊のようなものを感じる。




922

亀虫の臭いと眠る月冷えたり

100109

亀虫の臭いと眠る月冷えたり      『東国抄』

 私は群馬県の高崎市の街部に生れ育ち、それからも主に都会で暮すことが多かったので、亀虫をあまり意識したことがなかったが、長野県の田舎に住むようになってからは亀虫を相当意識するようになった。長野県の清内路村に住んでいた時は、その辺りの人が「屁臭虫(へくさむし)」と呼んでいたように大変臭い虫である。坂城町では、どういうわけかこの虫のことを「お嬢さん虫」と呼んでいた。坂城にはあまりいい思い出がない。とにかく雇われていた農場主が、まあいわば悪人で、いろいろ意地悪をされた記憶があるからであるが、その所為かこの「お嬢さん虫」という言い方も、どこか胡散臭く感じてしまうのである。現在住んでいる鬼無里では、亀虫のことを何と呼んでいるのかはまだ知らない。鬼無里は気に入らないところもあるが、概ね気に入っている場所である。この句、風土感とその風土に馴染んでいる作者と亀虫の一つの共有の時間である。




923

枯林に月顔を洗つて出直そうか

100110

枯林に月顔を洗つて出直そうか    『東国抄』

 「顔を洗つて出直そうか」が「枯林の月」が美しいということを強調している。またその「枯林の月」の美しさを前にして「顔を洗つて出直そうか」と呟いているという戯けの味もある。「枯林」は[こりん]と読むのであろう。




924

枯れてゆく山毛欅と共寝の寝正月

100111

枯れてゆく山毛欅と共寝の寝正月   『東国抄』

 山毛欅の木が枯れてゆくなあ、俺も枯れてゆくんだろうか、まあそれもいいなあ、目出度いことかもしれんなあ。そんな雰囲気がある。




925

鳥渡る月渡る谷人老いたり

100112

鳥渡る月渡る谷人老いたり    『東国抄』

 鳥は渡り、月も渡り、人は生れて老いて死んでゆく。ごく当たり前のことが坦々と述べられている感じで、哀しみという感覚は起らない。自然の中で自然とともに生きるそして死ぬということには哀しみは無い。




926

夜となれば冬月とあり老婆とや

100113

夜となれば冬月とあり老婆とや    『東国抄』

 この老婆、どことなく艶がある。気品といってもいいかもしれない。




927

自由人なる師の面影と月明り 

100114

自由人なる師の面影と月明り     『東国抄』

 この句は〈悼杉森久英先生 三句〉と前書のある二句目の句である。一句目と三句目は次の句である。

空つ風痩身の師の飄とありき
第一級の寒波です能登の酒いかが

 杉森久英は直木賞なども受賞した小説家であるらしい。私は何も知らないのであるが、「自由人なる師の面影」というのが素敵である。価値観を表す言葉は真・善・美などといろいろあるが、自由という言葉が私は何より好きだ。




928

船窓に冬の満月落ちもせず

100115

船窓に冬の満月落ちもせず     『東国抄』

 「船窓」の句といえば、戦地から引き上げてくるときの次の句が思い浮かぶ。

北へ帰る船窓雲伏し雲行くなど    『少年』

 また調べてみると次のような句もある

船窓を醜(しこ)の魚過ぎ目覚め荒し  『蜿蜿』

 これらの句を大雑把にその作句時期で並べてみると

北へ帰る船窓雲伏し雲行くなど    初期
船窓を醜(しこ)の魚過ぎ目覚め荒し  中期
船窓に冬の満月落ちもせず      後期

となる。いつも感じていることであるが、兜太の句は概ねその初期と後期で解り易く、中期で難解であるものが多い。このことは、何かの道を求めて辿るということに於ては、かなり一般性のある事実なのではないだろうか。




929

三日月に牛蛙とは鬱なるかな

100116

三日月に牛蛙とは鬱なるかな    『東国抄』

 この句は〈妻病む 十七句〉と前書のある十六句目の句である。前にも書いたと思うが「牛蛙」を自分に「月」を妻に譬えている雰囲気がある。そう思っていたところ、同じ頃の皆子句集『花恋』に「夫牛蛙万事順調万事順調」という句があって、自分の感覚も間違いではなかったと確認した次第である。こういう符合があるということは、夫婦の間でそういう会話があった可能性があるのではないか。遠慮のない夫婦関係であり、また俳句仲間であるということであろうか。




930

両手で顔被う朧月去りぬ

100117

両手で顔被う朧月去りぬ    『東国抄』

 あいまいな受け取りかたしかできない句である。そもそも「朧月」そのものが、あいまいでぼんやりしたものであるし、「両手で顔被う」というのも、どんな状況での動作かを確定できる言葉ではないからであろうか。両手で顔を被っているうちに朧朧としたものが去って物事がはっきりしてきたというような状況であろうか。最新の句集『日常』に

十分前朧の街を歩いていた

というのがあるが、このほうが意図がわかりやすい。「朧」の句としては、次のような佳い句もある

長生きの朧のなかの眼玉かな       『両神』
日本海人間もっとも朧かな        『日常』



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