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蕉門を読む 宝井其角
| 鑑賞日 2006/10/23 | |
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青柳に蝙蝠つたふ夕ばへ也
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青柳(あおやぎ) 蝙蝠(かわほり) |
| 青柳の緑、蝙蝠(こうもり)の黒、夕ばへの赤ととても色彩豊かな句である。謡曲『遊行柳』の「青柳に鶯伝ふ羽風の舞」というのをもじった作らしい。季節は「青柳」で春である。蝙蝠は普通夏の季であるがここでは春の蝙蝠。 | |
| 鑑賞日 2006/10/24 | |
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夢となりし骸骨踊る荻の声
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| 荻は水辺の植物でススキに似た大型の植物である。その荻が風に吹かれてざわざわとしているのを「荻の声」という。秋の季語である。 「この世での営みや栄華もすべて夢となってしまった骸骨が荻の声に合わせて踊っている」というのである。まことに気味の悪い映像であるが、ある種の真実味があり迫力もある。真実味というのは必ず人間が持っている死への恐れの感情であり、それがかなり図式化されたイメージではあるが、有るということである。其角というのは現世を楽しんだ人物だという感触があるが、そういう人物だからこそこの句のような想念を描くのかもしれないと思った。 |
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| 鑑賞日 2006/10/25 | |
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闇の夜は吉原ばかり月夜哉
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| まずは風景句として取るのが好きである。すなわち闇の夜に吉原を遠望して、そこばかりがほのぼのと明るいというような風景。江戸の町の夜の風景である。それから、かなりの蕩児だったという其角の心理的なものもあるだろうという順序での解釈。 なお作者不明の古句に「闇の夜は松原ばかり月夜かな」というのがあるらしいから、これの其角風もじりでもある。 |
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| 鑑賞日 2006/10/26 | |
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傘にねぐらかさうやぬれ燕
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傘(からかさ) |
| 粋な江戸町人の風流心というようなもの。春雨の風情がよく出ている。 芭蕉の「初時雨猿も小蓑を欲しげなり」を思いだす。芭蕉の句のほうが自然との交感がより強いが、其角句のこの心の弾みも捨てがたい。 |
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| 鑑賞日 2006/10/27 | |
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草の戸に我は蓼くふほたる哉
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| 蓼食う虫も好き好きという言葉があるように人の好みは様々であるが、自分は質素な庵に住んで風流に生きる螢であるよ、というのである。風流人であるということの自負、意気込み、そして若干他者に対する自分の優越性の誇示もある。だから芭蕉がこの句に対して「朝顔に我は飯食ふをとこかな」と詠んで其角を牽制したということもある。「・・いやあ私は飯を食う単なるおとこですよ」というわけである。 | |
| 鑑賞日 2006/10/28 | |
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乞食かな天地ヲ着たる夏衣
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夏衣(なつごろも) |
| 〈我身〉と前書
天地がすなわち自分の衣であるという実に自信と自負に満ちた宣言である。しかも自分は(俳諧)乞食であると言っている。内面の光を感じている若者の発言として気持ちが良い。荘子などの影響があるかもしれない。 |
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| 鑑賞日 2006/10/29 | |
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煤払て寐た夜は女房めづらしや
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煤払(すすはき) 女房(にようぼ) |
| 煤払いをした日の夜は見慣れた自分の奥さんも何か新鮮に感じられるというのである。この感じは多くの人が、そういうことがあると納得するのではなかろうか。庶民の日常に潜む性的香り。 | |
| 鑑賞日 2006/10/30 | |
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日の春をさすがに鶴の歩み哉
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| ゆったりと描かれた一幅の日本画を見るような美である。「日の春」は「今日の春」すなわち元旦のことであろうから、正月を祝う気分も流れている。言葉の連なりが美しく風格がある。しかし若干、「日本画」に有り勝ちののいかにも絵だという感じは否めない。 | |
| 鑑賞日 2006/10/31 | |
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梅が香や乞食の家ものぞかるゝ
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| 春になってどこやらか梅の香がしてくる。心もうきうきとしてきて思わず乞食の家も覗いてみたくなるような心持ちであるというような句意であろう。真に心が自然に同調してくると人間社会の身分などということもあまり眼中になくなる。乞食にさえ親しみを覚えるという心理的事実がある。そのあたりのところを其角は理解している。頭がいい。 | |
| 鑑賞日 2006/11/1 | |
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からびたる三井の仁王や冬木立
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三井(みい) |
| 三井は三井寺のこと。 からびた(乾ききった)仁王像と冬木立がよく響くのである。臨場感があり、冬木立の間を移動しているという感覚も起る。「三井の仁王」とう韻律も効いている。 |
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| 鑑賞日 2006/11/2 | |
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切ラレたる夢は誠か蚤の跡
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| 句意はあきらかである。昔は手打ちなどということもあったかもしれないから、切られる夢を見るというのも現代とは違う真実味はある。そしてそれが蚤に喰われた跡であったという落ちもあり、それなりに洒落ている。しかしそれ以上に、いわば虚業に遊ぶいわば自由人にとってはいわば切られるかもしれないという深層心理があるということも解るような気がするのである。 | |
| 鑑賞日 2006/11/3 | |
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夕皃や白き鶏垣根より
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夕皃(ゆうがお) |
| 夕暮れどき夕皃が白く咲いている。そのとき白い鶏が垣根の間よりやって来たというのである。夕暮れどきの静かで霊妙な感覚がある。一番最初に取り上げた句「青柳に蝙蝠つたふ夕ばへ也」と共通する色彩感覚と雰囲気である。其角の持つ一面であろう。 | |
| 鑑賞日 2006/11/4 | |
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焼鎌を背中に暑し田艸取
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焼鎌(やけがま) 田艸取(たぐさとり) |
| 〈農を憐れむ〉と前書
江戸時代の農民の姿を描いてリアリティーがあるのではないか。 |
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| 鑑賞日 2006/11/5 | |
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うつくしき顔かく雉子の距かな
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距(けづめ) |
| あの雉子の顔が眼前に見えてくるような句である。あの顔を美しいと其角は表現し、それを雉子がおのれのケヅメで掻いているというのである。何と表現していいか分からないが其角らしい感じがある。ある種自画像と言えるかもしれない。 | |
| 鑑賞日 2006/11/6 | |
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綿とりてねびまさりけり雛の皃
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皃(かお) |
| 「ねびまさる」は(1)年をとるにつれて立派になる(2)年齢より成熟しているー広辞林ーというような意味。 雛祭で陳列するために雛を包んである綿を取ってみたら雛の顔が以前見たよりも成熟して見えたという句意である。同じ物が以前の印象とは違ったふうに見えるということはしばしば経験することである。見る側の心持ちが変ってきているのである。ことにその対象物が人の顔形を持っている時などはより一層このようなことは起り易いのではないだろうか。この句の場合などはいろいろな経験を重ねてきている作者の成熟ということであり、この雛は女の雛である気もする。心理の微妙なところを書いている。 |
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| 鑑賞日 2006/11/7 | |
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菊の香や瓶より余る水に迄
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| 瓶(かめ)に活けてある菊、その瓶よりこぼれた水にまで菊の香りがするというのである。自然界は全て性でできている。ことに花というものはその上品な表明である。実は花は植物の生殖器なのである。この上品な性の香りというようなものをこの句には感じる。そしてその香りが溢れ余っている。何と豊かな把握だろう。 | |
| 鑑賞日 2006/11/8 | |
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鳩部屋に夕日しづけし年の暮
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| 感覚の冴えた句である。世間では忙しい年の暮に鳩部屋の夕日の静けさを感じとった感覚。芭蕉の「古池や蛙とび込む水の音」にたいして「山吹や蛙とび込む水の音」という案を出したことがある其角であるが、芭蕉のあまり感覚的ではない瞑想的な句に対して其角の方は感覚が冴えている。また掲出句に似たような言い回しの芭蕉の句に「牛部屋に蚊の声暗き残暑哉」「牛部屋に蚊の声よはし秋の風」などがあるが、やはり芭蕉の句は寂・栞・細みという人生的な感じ方である。もしかしたら其角の感覚句のほうが現代の俳人には受けるかもしれない。 | |
| 鑑賞日 2006/11/9 | |
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帰花それにもしかん筵切レ
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切レ(ぎれ) |
| やあやあ帰り花が咲いている筵の切れっぱしでも敷いて花見でもやろうか、というような心意気である。江戸の風流人の心意気、伊達心などが感じられる。芭蕉の「五月雨に鳰の浮巣を見にゆかん」に比べればはしゃぎすぎているところもある。 | |
| 鑑賞日 2006/11/10 | |
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雑水の名どころなれば冬ごもり
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| 〈翁の堅田に閑居を聞きて〉と前書
芭蕉が堅田の千那のところに滞在していた折の挨拶句のようなものであろうか。堅田は雑炊を名物とするところであったらしい。其角の芭蕉への親しみや心遣いが感じられる。「名物の雑水でも食べながらゆっくりと体を休めご静養してください」というようなことである。 |
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| 鑑賞日 2006/11/11 | |
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此木戸や鎖のさゝれて冬の月
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此(この) 鎖(じょう) |
| 冬の月が皓々と照っているピンと張りつめたような雰囲気が感じられる。硬質な品格のある立派な句である。 聞いたところによると、最初「此木戸」を「柴戸(しばのと)」と誤って刷られたのを芭蕉がそれでは駄目だというので「此木戸」と改めて版木を直させたという。確かに「柴戸」すなわち庵の戸のような軟質感のある戸ではこの句の風格は落ちる。城門の木戸のようながっしりと硬い感じのものがいい。 |
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| 鑑賞日 2006/11/12 | |
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はつ雪や内に居そうな人は誰
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| 初雪が降ってきたときの嬉しい気持ち。そしてその気持ちを誰かと分かち合いたいという気持ちである。やはりこういう二つの気持ちがあるのが風流人と言えるのかもしれない。「内に居そうな人」は外出しないで家の中に居そうな人という意味。 | |
| 鑑賞日 2006/11/13 | |
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うぐひすや遠路ながら礼がへし
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遠路(とおみち) |
| うららかな春の雰囲気がよく出ていると思う。鴬が鳴いている道を歩いていくということもそうであるが、「遠路ながら礼がへし」に行くという状況も暖い雰囲気を作っている。「礼がへし」は何かの返礼。 | |
| 鑑賞日 2006/11/14 | |
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名月や畳の上に松の影
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| 俳句というのは面白い。てにをはの一つを入れ替えただけで秀句がそうでなくなる。私がこの句を書き写すときに何の気なしに「名月や畳の上の松の影」と書いてしまって、どうも変だなと思っているとやはり「畳の上に」であった。「の」と「に」では大違いである。「に」でないと駄目である。「に」だと何か冴え冴えとした月の命のようなものさえも感じることができるのである。 「鳩部屋に夕日しづけし年の暮」や「此木戸や鎖のさゝれて冬の月」というような句もそうであるが、其角の時間が止まったような静けさの感覚は凄い。 |
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| 鑑賞日 2006/11/15 | |
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蚊柱に夢の浮はしかゝる也
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| 其角風無常観というようなもの。洒落ていて現世的でどこか艶がある。定家の「春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるゝ横雲の空」の本歌取り。 | |
| 鑑賞日 2006/11/16 | |
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秋の空尾上の杉に離れたり
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尾上(おのえ)=山の頂上 |
| 大きな景である。あたりまえのことであるから、より夾雑物のないさっぱりした大きな景を感じるのかもしれない。 | |
| 鑑賞日 2006/11/17 | |
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これは\/とばかりちるも桜かな
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| 散る桜はまた咲いている桜と同様に美しいものである。散る桜を見た時の弾んだ気持ち、はしゃいだ気持ちが感じられる。貞室の「これは\/と花のよし野山」のもじりであるそうであるが、あまりもじりの元句との関係で読むというのも興ざめすることもある。 | |
| 鑑賞日 2006/11/18 | |
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声かれて猿の歯白し岑の月
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岑(みね) |
| 墨の色濃く描かれた山水画を見るような趣である。皓々と照る月と高い岑。そこに猿が配されて白い歯をむき出しにしている。どこか夢幻的な趣のある句である。 芭蕉の「塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店」と比較される句である。芭蕉句が日常の中に詩を見つけているということに於てはより俳諧的であるが、其角のこの想像力溢れる句の味もまた捨てがたい。 |
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| 鑑賞日 2006/11/19 | |
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木母寺に哥の会ありけふの月
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木母寺(もくぼじ) |
| 木母寺は東京都墨田区にある天台宗の寺で「隅田川」の梅若丸の故事で有名。梅若寺とも呼ばれる。梅若丸は伝説上の人物。南北朝頃の、京都北白川の吉田少将惟房(これふさ)の子。人買いにさらわれて東国に下り、隅田川辺りで病死したとされる。ー広辞林よりー
また「蕉門名家句選」の堀切実さんの解説によると、木母寺はとても美景で知られていたらしい。このような美しいしかも梅若伝説のある寺で歌の会がありしかもその日は名月の日であるという。雅なものを三つも並べてしまっているのであるが却ってそれが味を出しているような気がする。芭蕉の寂しいものを三つも並べた「憂き我をさびしがらせよ閑古鳥」のような句もある。 |
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| 鑑賞日 2006/11/20 | |
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打櫂に鱸はねたり淵の色
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打櫂(うちがい) 鱸(すずき) |
| 前書は省いたが二股川という川を下ってゆくときの句である。打櫂というのは柄の短い櫂で川舟の漁師などが使うものらしい。 「淵の色」という言い止め方がいい。「打櫂に鱸はねたり」と具体的なことを少し言って、「淵の色」と大きな余白を残す。余白余情の美と言えようか。其角らしい視覚的な艶もある。 |
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| 鑑賞日 2006/11/21 | |
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僧ワキのしづかに向ふ薄かな
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| 〈僧ワキ〉は能の脇僧。簡素幽玄な装束姿で登場するー「蕉門名家句選」の解説
この句は謡曲『井筒』の場面が踏まえてあるそうなのであり、私はそれを知らないのであるが。知らなくとも十分に鑑賞できる。 |
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| 鑑賞日 2006/11/22 | |
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雨蛙芭蕉にのりてそよぎけり
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| この句の気持ち良さはやはり其角の色彩感覚によるところが大きいであろう。芭蕉も雨蛙も淡い緑色であるが、その緑色の小さな雨蛙が緑色の大きな芭蕉の葉にのって風が吹くままにそよいでいるのである。小さな自然の中に見い出した映像詩とでも言えようか。 | |
| 鑑賞日 2006/11/23 | |
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傾城の小哥はかなし九月尽
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傾城(けいせい)=遊女 |
| 〈怨閨誰レ〉と前書
つまり遊女が情夫に顧みられなくなったことへの怨みと寂しさを持ちながら歌う小歌がかなしいというのである。九月尽は旧暦の秋の終りであるから。遊女の心情と重なってより一層の寂しさを誘う。人間はかなしいものである。 |
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| 鑑賞日 2006/11/24 | |
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仏とは桜の花に月夜哉
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| 其角的な仏性の捉え方ではないだろうか。 ある禅のマスターが「仏とは何か」と問われて、「この糞掻きベラみたいなものだ」という話がある。つまり、仏性とはごく当たり前のことで特別なものではないというような意味である。 其角は「仏とは桜の花に月夜」であると言っている。あらゆるものに仏性を見ようとするのではなく、いわゆる美しいものに仏性を見る。このあたりが其角の限界だったのではないだろうか。私自身への戒めでもある。 |
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| 鑑賞日 2006/11/25 | |
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しら魚をうるひ寄たる四手哉
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寄(よせ) 四手(よつで)=方形の網 |
| 多分現在ではざらにある写生句であるが、江戸俳諧の時代にはやはり新鮮に感じて頂いた。しっかりと写生できているから白魚が網の中で生動している様子が目に見えるようだ。 | |
| 鑑賞日 2006/11/26 | |
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朝ごみや月雪うすき酒の味
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| 〈朝ごみ〉とは早朝の遊里遊び。都合で夜遊びに行けない者が、早朝に廓に通うことであるらしい。(『蕉門名家選』を参考)
諦めのような淡い浅い人間存在の感覚がある。 |
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| 鑑賞日 2006/11/27 | |
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かげろふや小磯の貝も吹たてず
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| 小磯に陽炎がゆらゆらとさかんに立っているが、それは散らばっている貝殻を吹く力はない、というのである。陽炎の質感を表現したものと受け取る。 | |
| 鑑賞日 2006/11/28 | |
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夕立にひとり外みる女かな
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| 竹久夢二の絵に出てきそうな女の姿である。「傾城の小哥はかなし九月尽」や「朝ごみや月雪うすき酒の味」に共通するような人間存在のはかなさのような雰囲気が漂う。 | |
| 鑑賞日 2006/11/29 | |
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ほしあひや暁になる高灯籠
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ほしあひ=七夕 高灯籠(たかどうろ)=戸外に掲げれる高い灯籠 |
| 暁の高灯籠のうすれてゆく光りの雰囲気が、牽牛と織女の逢瀬の名残の余情を感じさせる。 | |
| 鑑賞日 2006/11/30 | |
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すむ月や髭をたてたる蛬
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蛬(きりぎりす) |
| 大きなもの(月)と小さなもの(髭を立てた蛬)を対照させた其角の絵画的な才。蛬の髭まで描いたことによって澄んだ月の光りがより一層感じられる。 | |
| 鑑賞日 2006/12/1 | |
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泥亀の鴫に這よる夕哉
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泥亀=すっぽんのこと 鴫(しぎ) 夕(ゆふべ) |
| とてもいろいろな感じ方が起る句である。生々しい感じ。怪奇なる感じ。エロティックな感じ。この句などは案外其角の肉体感が一番よく出ている句なのではないか。ぬめぬめっとした映像感もあり、また寓意も考えれば沢山盛り込んで解釈できる可能性がある。 沢山の其角らしい要素があり、また優れてもいるので其角の代表作としたいくらいである。 |
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