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金子兜太全句鑑賞166〜170 (『金子兜太句集』1〜5)

166/kanekotoutakushuu-1

句集『金子兜太句集
半島ー三部 -神戸-

車窓より拳現れ旱魃田
昭和28/9〜33/2
(1953/9〜1958/2)
34歳〜39歳
鑑賞日
2004年
9月8日
 〈丹波行 九句〉と前書のある句のうちの一句目

 今日から『金子兜太句集』の鑑賞に移る。この鑑賞は筑摩書房刋『金子兜太集』の第一巻を主に使わせてもらっているが、『金子兜太句集』に関して次のようにある。
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 「現代俳句新書」として編まれたもの。全体は四部に分かれ、一・二部を「少年」、三・四部を「半島」としており、この時期での金子兜太全句集の形をとった第二句集である。第一句集『少年』は三部の半ばまでをカバーしているため、ここでは『少年』との重複部分を省略した「半島」三部および四部を掲載した。
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 車窓に広がる旱魃の田。その画面に異質物のように現れた拳。この拳が妙に生々しい。
 尾崎豊の卒業という歌に「・・俺達の怒りどこに向かうべきなのか・・・」とある、応えは帰ってこない・・私達は怒りを苦しみを悲しみを何処まで引きずって行けばいいのだろう何処にぶつけたらいいのだろう・・・応えは無い。そのようにこの「拳」には行き場が無い。怒り悲しみ苦しみを負ってこの世に放り出された我々人間には行く場所が無いのだ。・・尾崎豊は死んじまった・・自死だったのだろうか・・


167/kanekotoutakushuu-2

句集『金子兜太句集
半島ー三部 -神戸-

青年鹿を愛せり嵐の斜面にて
昭和28/9〜33/2
(1953/9〜1958/2)
34歳〜39歳
鑑賞日
2004年
9月9日
 〈丹波行 九句〉と前書のある句のうちの六句目

 句自体も魅力的であるが、別の意味でも印象的な句である。それは『生長』『少年』と読み進めて来た私の中にある筋書きが出てきてしまうということなのである。
 ある意味では『少年』は象徴としての少年への作者のアプローチの軌跡とも言える句集であった。この少年はいわば人間の心の奥に潜む純な魂の表象であると、私は捉えてきたのである。そして『少年』の鑑賞の最後の部分で、私は「作者はこの少年をはっきりと意識し現実の生の中にこの少年を招じ入れたので、孤独なる少年はもう現れないだろう」という意味のことを書いた。そういう読み方をしていた私が、『少年』の次の句集でこの「青年鹿を愛せり嵐の斜面にて」という句に出会って感銘を受けたということなのである。
 少年は青年となり、しかも嵐の斜面で鹿を愛しているのである。少年とは人生においてまだ愛の対象を見定めていない存在であり、青年とは人生において愛の対象を見いだした存在であるとも言える。
 この句、過酷であるが清々しい感じを持つ言葉「嵐の斜面」が効いている。


168/kanekotoutakushuu-3

句集『金子兜太句集
半島ー三部 -神戸-

人生冴えて幼稚園より深夜の曲
昭和28/9〜33/2
(1953/9〜1958/2)
34歳〜39歳
鑑賞日
2004年
9月10日
 生きて行くということの煩わしさや奮闘の合間にふっと訪れる恵まれたような時間。生きて行く上での様々な問題から逃避した時間ではなく、それらを抱えながらもそれらを超えたような意識の時間。まさに人生の冴えた時間である。
 そのような時間には人間は必ず内奥の無垢なる意識と繋がっているし、相対的な闇と光ではなくそこには絶対的な深々とした闇あるいは光が存在しているような時間である。そのような状態が「幼稚園より深夜の曲」という言葉で表現されている。内的な状態を物で書くという好例である。実際に深夜に幼稚園から曲が聞こえてきて、それが契機となって作者をこのような状態に導いたとも言える。いずれにしても内的な事実と外的な事物が一致して表現が完成されたわけである。
 さてこの曲はどんな曲が相応しいだろう。あるいは実際どんな曲が聞こえてきたのだろう。それを考えるのが一番楽しい。先ず最初に浮かんだのがベートーベンのピアノソナタ「月光」である。ドビュッシーの「月光」なども思い浮かんだ。何故か月の光の感じがあるのだ。ソルの「月の光」などもある。やはり最終的にはベートーベンの「月光」ということに落ち着いた。あの段々段々と満ちてくるような内面が充実してくるような曲想がいい。


このサウンドはhttp://tokyo.cool.ne.jp/toys_playbox/ak_0006.htmから転載させて頂きました。


169/kanekotoutakushuu-4

句集『金子兜太句集
半島ー三部 -神戸-

白く抜け出て涸れ川海へ深夜の刻
昭和28/9〜33/2
(1953/9〜1958/2)
34歳〜39歳
鑑賞日
2004年
9月11日
 〈刻〉は[とき]とルビ

 「人生冴えて幼稚園より深夜の曲」と同じ場面を別の角度から作った句のような気がする。
 「白く抜け出て涸れ川海へ」で通常の意識からより深い所の意識への逃避ということが感じられる。前句の鑑賞でも言ったが、現実の問題から現実的に逃避するのではなく意識だけがより深い所へ逃避するのである。この場合、「涸れ川」は現実に直面している通常の意識の表象で「海」はより深い所にある潤いに満ちた意識の海の表象である。
 また「白い人影はるばる田をゆく消えぬために」などの句でもそうだが、私はこの「白」に自由ということを感じてしまうのだがどうだろうか。
 「深夜」というのは瞑想の時間・内面の時間ということでもあるし、「白く抜け出る」ための・意識が自由に飛翔するための背景の黒を演出しているとも言える。
 「白く抜け出て涸れ川海へ深夜の刻」という句を味わっていると、心地よい黒い空間を意識の白蛇が自由を求めて自由になって泳いで行く光景が目に浮かんで来たりする。


170/kanekotoutakushuu-5

句集『金子兜太句集
半島ー三部 -神戸-

激論つくし街ゆきオートバイと化す
昭和28/9〜33/2
(1953/9〜1958/2)
34歳〜39歳
鑑賞日
2004年
9月12日
 意味明快でインパクトがある。青春のエネルギーそのもののかたまりのムーブメントのようだ。
 尾崎豊の〈十五の夜〉という曲に「・・盗んだバイクで走りだす、行く先も解らずに、自由になれた気がした・・・」とあるが、それが連想された。尾崎の場合は、どうにも処理しようのない思春期の少年のエネルギーの爆発を表現している。この兜太句の場合はもっと成熟した青年のエネルギーの表現である。
 尾崎豊は純な魂を扱いきれずに、そのエネルギーをまとめることができないまま死んでしまった。尾崎には、その純なエネルギーを止揚してもっともっと健康で長生きをしてもらいたかった。金子兜太のように。
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