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金子兜太全句鑑賞166〜170 (『金子兜太句集』1〜5)
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句集『金子兜太句集』 |
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車窓より拳現れ旱魃田
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昭和28/9〜33/2
(1953/9〜1958/2) 34歳〜39歳 |
鑑賞日
2004年 9月8日 |
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〈丹波行 九句〉と前書のある句のうちの一句目
今日から『金子兜太句集』の鑑賞に移る。この鑑賞は筑摩書房刋『金子兜太集』の第一巻を主に使わせてもらっているが、『金子兜太句集』に関して次のようにある。 車窓に広がる旱魃の田。その画面に異質物のように現れた拳。この拳が妙に生々しい。 |
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句集『金子兜太句集』 |
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青年鹿を愛せり嵐の斜面にて
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昭和28/9〜33/2
(1953/9〜1958/2) 34歳〜39歳 |
鑑賞日
2004年 9月9日 |
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〈丹波行 九句〉と前書のある句のうちの六句目
句自体も魅力的であるが、別の意味でも印象的な句である。それは『生長』『少年』と読み進めて来た私の中にある筋書きが出てきてしまうということなのである。 |
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句集『金子兜太句集』 |
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人生冴えて幼稚園より深夜の曲
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昭和28/9〜33/2
(1953/9〜1958/2) 34歳〜39歳 |
鑑賞日
2004年 9月10日 |
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生きて行くということの煩わしさや奮闘の合間にふっと訪れる恵まれたような時間。生きて行く上での様々な問題から逃避した時間ではなく、それらを抱えながらもそれらを超えたような意識の時間。まさに人生の冴えた時間である。
そのような時間には人間は必ず内奥の無垢なる意識と繋がっているし、相対的な闇と光ではなくそこには絶対的な深々とした闇あるいは光が存在しているような時間である。そのような状態が「幼稚園より深夜の曲」という言葉で表現されている。内的な状態を物で書くという好例である。実際に深夜に幼稚園から曲が聞こえてきて、それが契機となって作者をこのような状態に導いたとも言える。いずれにしても内的な事実と外的な事物が一致して表現が完成されたわけである。 さてこの曲はどんな曲が相応しいだろう。あるいは実際どんな曲が聞こえてきたのだろう。それを考えるのが一番楽しい。先ず最初に浮かんだのがベートーベンのピアノソナタ「月光」である。ドビュッシーの「月光」なども思い浮かんだ。何故か月の光の感じがあるのだ。ソルの「月の光」などもある。やはり最終的にはベートーベンの「月光」ということに落ち着いた。あの段々段々と満ちてくるような内面が充実してくるような曲想がいい。 |
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句集『金子兜太句集』 |
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白く抜け出て涸れ川海へ深夜の刻
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昭和28/9〜33/2
(1953/9〜1958/2) 34歳〜39歳 |
鑑賞日
2004年 9月11日 |
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〈刻〉は[とき]とルビ
「人生冴えて幼稚園より深夜の曲」と同じ場面を別の角度から作った句のような気がする。 |
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句集『金子兜太句集』 |
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激論つくし街ゆきオートバイと化す
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昭和28/9〜33/2
(1953/9〜1958/2) 34歳〜39歳 |
鑑賞日
2004年 9月12日 |
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意味明快でインパクトがある。青春のエネルギーそのもののかたまりのムーブメントのようだ。
尾崎豊の〈十五の夜〉という曲に「・・盗んだバイクで走りだす、行く先も解らずに、自由になれた気がした・・・」とあるが、それが連想された。尾崎の場合は、どうにも処理しようのない思春期の少年のエネルギーの爆発を表現している。この兜太句の場合はもっと成熟した青年のエネルギーの表現である。 尾崎豊は純な魂を扱いきれずに、そのエネルギーをまとめることができないまま死んでしまった。尾崎には、その純なエネルギーを止揚してもっともっと健康で長生きをしてもらいたかった。金子兜太のように。 |
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