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金子兜太全句集鑑賞202〜210 (『蜿蜿』1〜9)
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句集『蜿蜿』 |
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孤独な鹿草けり水けり追われる鹿
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昭和36/4〜42/7
1961/4〜1967/7 42歳〜48歳 |
鑑賞日
2004年 10月25日 |
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今日から句集『蜿蜿』の鑑賞に入る。この句集は1961年から1967年までの約六年間の作品から三百句を選んでいる。12345・・・というローマ数字で13章に分けられている句群である。これはその冒頭の句である。
まず映像が美しい。緑なす水の惑星地球の大地が思い浮かぶ。そこを鹿が駈けてゆく。美しい。しかし、この鹿は孤独であり、また追われる身である。 |
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句集『蜿蜿』 |
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鉄棒にさがる子段丘を越えてきて
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昭和36/4〜42/7
1961/4〜1967/7 42歳〜48歳 |
鑑賞日
2004年 10月28日 |
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懐かしい雰囲気を持った句である。自分の中の無垢なるものが呼びさまされるような懐かしさである。単なる外側の子供を描写したのではない。ある譬えのようなものが感じられてならない。
ニーチェは人間の成長の過程を、ラクダ→ライオン→子供、という譬えで表現しているそうである。イエスもまた「子供のようにならなければ、あなた方は天の国には入れない」と言っている。ラーマクリシュナなどは、彼そのものが子供の質を具現していた。私も、人間は成長の果ての高みにおいては、その内面が子供のように無垢な性質を帯びてくると思っている。 いや多分この子供のような無垢な心は、誰でもが最初から持っているのであり、その無垢なるものを素直に認めるだけの強さを獲得するということが成長ということなのかもしれない。金子兜太の句集を年代順に追って読んできて、印象的な〈少年〉や〈青年〉が出現するのを私は見てきた。ここに来て、懐かしいような雰囲気を持つ〈子供〉が現れたということは、時間が一見逆転しているように見えるが、実は、成長というのは、こういうことだ、という気がするのである。 ラジニーシは grow old と grow up を全く別のものであるとしている。私のここでいう成長とは grow up のことである。 |
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句集『蜿蜿』 |
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どれも口美し晩夏のジヤズ一団
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昭和36/4〜42/7
1961/4〜1967/7 42歳〜48歳 |
鑑賞日
2004年 10月29日 |
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黒人のジャズメンが美しい歯並びを見せて歌っている場面がありありと見える。 |
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句集『蜿蜿』 |
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沼が随所に髭を剃らねば眼が冴えて
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昭和36/4〜42/7
1961/4〜1967/7 42歳〜48歳 |
鑑賞日
2004年 10月30日 |
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躁状態のような気がする。「そこらじゅうに沼があってチラチラと光っている。一歩足を踏み入れたらはまってしまう泥沼かもしれない。髭でも剃って気を落ち着かせよう。とにかく眼が冴えてたまらない」という感じである。 |
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句集『蜿蜿』 |
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頭上の窓より朝光詩編はなお暗く
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昭和36/4〜42/7
1961/4〜1967/7 42歳〜48歳 |
鑑賞日
2004年 10月31日 |
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例えば『祈り』という題名を持った陰影の深い絵画のようである。 |
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句集『蜿蜿』 |
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雨の運河へ雨沈む嘘は惜しみなく
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昭和36/4〜42/7
1961/4〜1967/7 42歳〜48歳 |
鑑賞日
2004年 11月1日 |
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まず「雨の運河へ雨沈む」という光景に引きつけられる。親しみのある光景であり、「雨・・・雨・・・」という繰り返しによって厚い心情がある。癒しという言葉さえ思い浮かぶような心情である。そして「嘘は惜しみなく」となる。これが面白い。 |
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句集『蜿蜿』 |
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紫陽花の夜にうずくまる善意の妻
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昭和36/4〜42/7
1961/4〜1967/7 42歳〜48歳 |
鑑賞日
2004年 11月2日 |
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これも美しい情感で描かれている。優しさである。見守る優しさである。 |
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句集『蜿蜿』 |
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東北や眼の奥退るかの老母
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昭和36/4〜42/7
1961/4〜1967/7 42歳〜48歳 |
鑑賞日
2004年 11月3日 |
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〈退る〉は[しざる]とルビ 「退る」をしざると読むとは初めて知ったが、この言葉がいかにも山国や雪国の老女の眼の感じを出していると思った。、 |
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句集『蜿蜿』 |
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トンネルに風びようびようと鳴り込む旅
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昭和36/4〜42/7
1961/4〜1967/7 42歳〜48歳 |
鑑賞日
2004年 11月6日 |
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この句は〈3竜飛岬にて〉という章の最初の句なのである。この章は、独特な一つの雰囲気を持った旅の章である。いわば、独り者の青年が放浪の旅をしているような雰囲気である。そんな雰囲気を持った句を並べてみると トンネルに風びょうびょうと鳴り込む旅 などとなる。トンネルに、自分の心の空洞に風がびょうびょうと鳴り込むような旅であったのだろう。観光旅行なのではない、旅なのだ。そしてこの章の最後を飾る魅力的な次の一句が出てくる。 |
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