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金子兜太全句集鑑賞211〜220 (『蜿蜿』10〜19)

211/enen-10

句集『蜿蜿
3竜飛岬にて

無神の旅あかつき岬をマツチで燃し
昭和36/4〜42/7
1961/4〜1967/7
42歳〜48歳
鑑賞日
2004年
11月7日

 近代的知性を持ち詩心を持つ若者で、この句を読んで、むずむずとした放浪のロマンに捉えられない人がいるだろうか。自由への憧れがざわざわと胸の中で騒がない人がいるだろうか。この引きずっているような日常の堆積物を放り投げて、放浪の旅にでも出てみようという誘いが、心の中に起こってこない人がいるだろうか。
 この世のまやかしの価値観など放り投げて、真心と詩心だけを頼りにどこまでも歩いて行ってみたい、という憧れを、この句は喚起する。なぜなら、そのような在り方は美しい、ということをこの句が明言しているからである。手垢に汚れた神の概念や道徳を信じて、生をひきずって生きて行くよりは、〈あかつき岬をマッチで燃す〉生き方のほうがずっと美しいのである。


212/enen-11

句集『蜿蜿
4

霧の村石を放うらば父母散らん
昭和36/4〜42/7
1961/4〜1967/7
42歳〜48歳
鑑賞日
2004年
11月8日

 誰でもが親というものに象徴される社会の条件付けを背負って育ってくる。自由というものに憧れる人は、一度はそういうしがらみを全て放り投げてドロップアウトしたいと思う時がある。実際にはそういう行動を取らないにしても内面的にはそういう心持ちを持つことは人間の成長の一部である。
 人間は親を越えなければならない。親を許さなければならない。
 そして成長の過程で、親も一人の弱い人間に過ぎない、と感じる時が来る。この句はそのような時の心理を描いたものに思えてならない。〈いままで自分の中で確とした存在だった社会(村)も霧のような幻影に過ぎなく思える。そして厳として存在していた親というものも、石を放れば散っていってしまうような頼りないものに思える〉というような感じである。そしてニュアンスとしては作者には〈石を放れば父母は散るだろうけれど、私は放らない〉という心理がある。この辺りの微妙に自分を律しているところに、作者の、自由に生きるという事はどういうことかという把握の極まりの態度があるような気がする。
 グルジェフは「親を許せない人は宗教的にはなれない」と言ったそうである。私は宗教的ということを、存在の根源との繋がりと言い換えて、このグルジェフの言葉に同感なのであるが、この句はそのような意味で〈親を許した瞬間〉の句である気さえする。

 『蜿蜿』の後書で兜太は次のように書いている
 ・・・この句集を編みおわって、私は〈一人の連句〉ということを思った。〈最短定型のイメージ〉を追い、それの豊かな〈形象〉を求めて、むしろ一句一句の独立に執心して作句してきたわけだが、一冊にまとめてみると、あたかも、連句の席に会した人たちが激しく付け合ったように、私は、自分ひとりのなかで、自分の句に向って、ときに反発し、ときに響和しながら、気合いをもって相対し、相関わりつつ、次々と句を作りだしていたことを知るのである・・・・
 このことは「無心の旅あかつき岬をマッチで燃し」と「霧の村石を放うらば父母散らん」の連なりを思うときに、実に強く同感する。自由への強い憧れ、そして自由ということと社会との関連。これらの問題が提示され、饗和され、反問され、反芻されている。そして私はこれらの問題に対する作者のアプローチに対して、詩的空間の中で強く共感することができるのである。


213/enen-12

句集『蜿蜿
4

石柱さびし女の首にこおろぎ住み
昭和36/4〜42/7
1961/4〜1967/7
42歳〜48歳
鑑賞日
2004年
11月9日

 石柱がさびしく立っている。そして女の首にこおろぎがすんでいる。意味は分からないが、ある種の感覚がある。夢の中での感覚のような、理性では割り切れない感覚である。理性では割り切れないが、情念を刺激してくるものではなく、何かを知的に見ている感覚である。
 絵でいえばダリの絵などが思い浮かぶ。兜太の句は時々、画像に置き換えてみるとその世界をよく感じられるものがある。この句もそうである。私には、硬質感のある石柱が立っていて、克明に描写された女の首に住むこおろぎが見えてくる。何故か、克明に描写されたという感じがあるのだが、それがダリを思い出させるのかもしれない。夢の世界の知的な把握というようなことでダリとの共通性があるのかもしれない。


214/enen-13

句集『蜿蜿
4

星近づけて馬洗う流域富ますべく
昭和36/4〜42/7
1961/4〜1967/7
42歳〜48歳
鑑賞日
2004年
11月10日

 牧歌的・神話的である。〈牧神の午後〉という感じである。
 どうしてそのような感じが出てくるかというと、書き方にある。意味は「星の出ている夜に、河辺で馬を洗っている」ということだが、それを「星近づけて」「流域富ますべく」と書いているからである。この人物は自らの意思で、星を近づけたり、流域を富ます力を持っているのである。つまり神々の一人に違いない。
 このように、自分は神々の一人であるという感じ方は現代にもっともっと浸透してもいい。自分はこの世界の一構成員であるとともに、この世界を作ってゆく神々の一人なのだ。このような主体的で責任の生ずる考え方を各々が持てば、世界はもっと健全で生き生きしたものになるだろう。環境破壊など起きようがない。
 この句は私の好みの句である。豊かで、ロマンがあって、土の香りさえしてくる。


215/enen-14

句集『蜿蜿
4

虚無明らか歯科がちやがちやに光崩し
昭和36/4〜42/7
1961/4〜1967/7
42歳〜48歳
鑑賞日
2004年
11月11日

 「歯科がちやがちやに光崩し」で、金属製の光ったさまざまな歯科器具が置いてある歯科医院の光景がまざまざと眼に浮かんだ。そしてこれを作者は「虚無明らか」だと言う。多分、これは明るい虚無感である。さっぱりした、重荷を下ろしたような虚無感である。そんな明るい虚無感とでも呼べそうな気分に作者はあったのかもしれない。この句を読むとそんな気がしてくる。
 ただ、私の予想ではこの明るい虚無感という感じは長続きする感じではない。限られた短い時間だけ訪れる感覚だと思う。自分の経験から、そう思うのであるが、どうだろうか。


216/enen-15

句集『蜿蜿
6

満ちてくる海白骨の朝の人
昭和36/4〜42/7
1961/4〜1967/7
42歳〜48歳
鑑賞日
2004年
11月12日

 「白骨」という言葉が使われているわりには、気味の悪い感じはなくむしろ全体的にすがすがしいものがある。現実と超現実の境目にあるような映像であるが、動きもあり精気もある故に、超現実から現実への目覚めの刻のような雰囲気を持っている。
 絵画ではイメージが固定されてくるので、超現実的なものは超現実的なものとしてしか表現出来ないが、この句は動きのある映像なので、読後感としてはむしろ現実的な目覚めの感覚がある。


217/enen-16

句集『蜿蜿
6

鶴の本読むヒマラヤ杉にシヤツを干し
昭和36/4〜42/7
1961/4〜1967/7
42歳〜48歳
鑑賞日
2004年
11月13日

 『少年』の「リルケ忌や摩するに温き山羊の肌」という句と良く似ている。そして共に好きな句である。多分内容が好きなのだ。このような生活に親しみを覚えるのである。
 濡れたシャツをヒマラヤ杉に干し、それが乾く間に鶴の本を読む。陽が燦々と照っている感じ。大地は健康で心は豊かである。このような内容の句に郷愁を覚え、涙さえ催してくるというのは、どういう訳であろうか。
 健康な大地、心豊かな生活というものが遠い記憶の彼方にある状況が現代を覆っている所為ではなかろうか。


218/enen-17

句集『蜿蜿
6

幹線に遠く産卵に沸くみずうみ
昭和36/4〜42/7
1961/4〜1967/7
42歳〜48歳
鑑賞日
2004年
11月14日

 小気味良いものがある。経済優先の現代日本では、その活動の動脈として、交通網の幹線が張り巡らされている。しかし逆にその経済活動から見離されたような僻地では案外このように自然が豊かに息づいている、という皮肉ではあるが自然の持つ力のしたたかさのようなものを感じてニンマリとしてくる。
 そしてこの句に呼応するように「僻遠に青田むしろのごと捨てられ」という句が次にある。現代の経済機構の中に組み込まれた農業の末路である。農業を単なる経済活動の一つと見做すと、こういう結果になる。“農”というものは、人間と自然を結びつける大事な営みとして捉えられなければならない、というのが私の考えであるが、この現実を描写した二つの句

 幹線に遠く産卵に沸くみずうみ
 僻遠に青田むしろのごと捨てられ
 
を並べてみると、自然の持つ力を感じると共に、その自然から遊離する方向に、またこの自然の持つ力を押し潰すような方向に進んでいる人間が、これからどうなってゆくのか、ということを思わざるを得ない。


219/enen-18

句集『蜿蜿
6

雉を食うさね・ちんぼこの区別なく
昭和36/4〜42/7
1961/4〜1967/7
42歳〜48歳
鑑賞日
2004年
11月15日

 「さね」とは辞書で引くと〈陰核〉とある。つまり、雌の性器の男根に相当する部分である。
 この句は作者の生きる態度が表明されている句である。“まるごといただく”という態度である。
 我が家にはヨウヘイという名の猫がいる。この猫は私にニャーニャーと餌をねだるのが習慣になっている。餌の皿に餌が入っているにも関わらず、ニャーニャーとうるさい。餌がないのかと思って一緒に餌の皿のところまで行くと、餌は入っている。そして食べるのである。一緒に餌のところまで行ってもらいたいのである。要するに甘えん坊なのである。
 この猫を時々尊敬の眼差しで見ることがある。先日も、妻が蔵で鼠らしき音がかすかにしたので、炬燵で寝ているヨウヘイをその蔵の入り口まで連れて行くと、すっとその音の方向に忍び寄っていって一分も立たない内に鼠を捕まえて来た。そしてその鼠を頭から尻尾まで全て食べてしまったのである。鼠に限らず、小鳥やモグラなどこの猫は良く獲る。そしてまるごと全部食べる。このような姿に接するときに「偉いなあ」と感心するのである。
 私達は、物事を清い部分汚れた部分に分けて考えがちである。体の部分にしても、ある部分は清いある部分は汚れていると見る。無意識の内にそうしている。だから、私なども例えば白子(魚類の精巣)などは食べるのが苦手であった。形もぐにゃぐにゃとして好まないし、なによりも精巣だという思いがあったからである。このように全体
を浄と不浄の二つに分けて考えるという事は、多かれ少なかれ全ての人にあるに違いない。 
 だから、私はこの句に感心し、尊敬の気持ちが沸いてくる。“まるごといただく”という態度は尊敬すべき態度である。


220/enen-19

句集『蜿蜿
7

蝌蚪つまむ指頭の力愛に似て
昭和36/4〜42/7
1961/4〜1967/7
42歳〜48歳
鑑賞日
2004年
11月16日

  愛とは何か。それを短く言いきったのがこの句である。
 愛というものは哲学的な言葉では定義はできない。なぜなら、愛は本来言葉では表現し得ないものだからである。「愛を語るな、愛せ」とはよく言ったものである。愛は人間が自分を賭けて実現していくものであって、論じるものではないからである。だから“考える人”がいくら考えても論じても、愛というものは理解でき得ないし、表現し得ない。
 愛というものの断片を言葉で表現し得るとしたら、それは詩の分野、アナロジーの分野においてであろう。それがこの句の試みである。しかし、その試みも完璧というわけにはいかない。だから作者は「蝌蚪つまむ指頭の力愛である」とは言わないで「・・・に似て」と逃げている。だから逆にこの句が、愛というものを言いきっている、と私は書いたのである。
 愛を実践しようとしてたくさんの経験を積んだ賢明な読者には、この句の譬えの適切さ豊かさが分かっていただけると思う。

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