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金子兜太全句集鑑賞611〜620( 句集後 73〜82)
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句集後 |
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ここだくの柚子の口付け風呂の中
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「海程」の発行
平成16年8月 (2004)85歳 |
鑑賞日
2006年 2/15 |
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たっぷりと、ゆったりとした時間、豊かさ、生。そんなものを感じる。 |
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句集後 |
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穴惑吾を訪ねきて歎く
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「海程」の発行
平成16年8月 (2004)85歳 |
鑑賞日
2006年 2/16 |
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季語のことを知らない一般的な人が〈蛇穴に入る〉や〈穴惑い〉という言葉を耳にしたら、卑猥な連想をするに違いない。つまり蛇は男根の象徴であり、穴は女陰を表現していると言えるからである。 蛇穴に清(さや)と伏せたる睫毛かな 田口満代子 くたびれた。何だかフロイトの気分になってきた。 さて掲出句であるが、やはり二つの意味に取れるのであるが、あまりフロイト的な気分(すべての物事を性に結びつけて考える)になったので、本来の意味である蛇そのものが自分を訪ねてきて嘆いたという解釈が好ましくなってきた。 |
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句集後 |
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押し突きの力士桐の花了る
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「海程」の発行
平成16年8月 (2004)85歳 |
鑑賞日
2006年 2/17 |
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元来私は、意味の支えがあってしかも感覚的に魅力ある句を取り上げる傾向にあったが、この句などは感覚的なものだけで取り上げている。「突き押しの力士」と「桐の木」あるいは「桐の花」のスッとしたようなすがすがしい感じが私のなかのどこかで響き合うのである。
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句集後 |
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藻の揺れに呼ばれ麦秋の日本海
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「海程」の発行
平成16年8月 (2004)85歳 |
鑑賞日
2006年 2/18 |
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「藻の揺れ」、「麦秋」、「日本海」、すべてに快い揺れがある。全体でも「藻の揺れに呼ばれ麦秋の日本海」に来たという動きに快い漂泊感がある。詩人だなあと思うし、自分の生の流れが自然の流れと一致しているなあと思う。 兜太における“漂泊”には自然との“合一”があるから、芭蕉の“旅”のような悲壮感がない。兜太の言う〈定住漂泊〉、〈天人合一〉というような言葉の意味を味わっている。 |
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句集後 |
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黄揚羽寄り来原子公平が死んだ
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「海程」の発行
平成16年10月 (2004)85歳 |
鑑賞日
2006年 2/19〜20 |
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〈原子公平死す 五句〉と前書のある一句目 私は死というものに敏感である。それが私の特徴だといってもいいくらいである。だから、このような最近の悼句を評することは特別な気持ちがする。 原子公平が死んだ このような句を読むと、俳句というのは何も書かれていない部分を味わうものだという気がする。つまり“切れ”ている空間である。この句においては「黄揚羽寄り来」という言葉と「原子公平が死んだ」という言葉の間にとても大きな味わい尽せない空間があるわけである。(上の空白の部分はそれを表現したつもりではある) 下呂の湯とろりと古酒の味して更けにける ・・・黄揚羽寄り来原子公平が死んだ・・・ |
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句集後 |
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炎暑の白骨重石のごとし盛り上る
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「海程」の発行
平成16年10月 (2004)85歳 |
鑑賞日
2006年 2/21 |
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〈原子公平死す 五句〉と前書のある三句目 掲出句も含めて、この前書のある二句目から四句目までを列記してみる 炎昼の荼毘白骨となり現(あ)れしよ これらを読むと実に不思議な感じがする。白骨が霊性を帯びて光っているという感じがする。白骨=魂、すなわち物質=魂という感じに至る。さらに突きつめると、物も魂も全てひっくるめて一つの存在である、という一元論的な感じに至る。 |
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句集後 |
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「夕べに白骨」などと冷や酒は飲まぬ
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「海程」の発行
平成16年10月 (2004)85歳 |
鑑賞日
2006年 2/22 |
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〈原子公平死す 五句〉と前書のある五句目 「夕べに白骨」とは蓮如の言葉であるらしい(参照『白骨の御文』)。要するに人間は「・・・朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり・・」ということで、この世は無常人生は無常であるから、後生を願って阿弥陀仏にすがりなさいよ、という意らしい。いかにも偉い坊さんの言いそうなことで、宗教ビジネスの広告文のようなものである。脅しをかけておいてから、それにたいする処方箋を示す、あらゆるビジネスの常套手段である。これは私のいわゆる宗教に対する文句である。 さて掲出句である。「人生は無常だなあなどと言って冷や酒は飲まないぞ」という意味にとっていいだろう。人生は無常、それは確かにそうである。しかし〈無常観〉というのは曲者である。一般的には〈なぐさめ〉、〈敗北主義〉、〈権威にすがる依存心〉のようなものであるにすぎない。作者はそんなものには落ち入らないぞというガッツを示している。気持ちがいい。 |
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句集後 |
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癌と同居の妻に太平洋は秋
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「海程」の発行
平成16年11月 (2004)85歳 |
鑑賞日
2006年 2/23 |
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とても良い句であり、とても好きな句である。 |
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句集後 |
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螢火や人の眼の茫と哀しき
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「海程」の発行
平成16年11月 (2004)85歳 |
鑑賞日
2006年 2/24 |
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「人の眼の芒と哀しき」、この微妙な言い回しが魅力である。人と自分と自然と混然と哀しく愛しく、それらが「螢火」に照らされていて美しい。文の構造をはっきり説明できない句であるが、そのこと自体がこの人の世の自然の哀しく愛しい姿をそのまま映し出している気もする。叙情というのはこのようなことかもしれない。 |
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句集後 |
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ゆつくりと飯噛む天道虫と居て
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「海程」の発行
平成16年11月 (2004)85歳 |
鑑賞日
2006年 2/25 |
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〈噛〉は旧字体 我が家はいわば雑穀主義である。主食としては米・麦・粟・黍・蕎麦というようなものを食う。これは特に建康のためというよりは、これら(米を抜かして)が自分の畑で獲れるからである。そして玄米は今でも時々食うし、一頃は玄米を毎日食べていた。ちなみに玄米は小豆と炊き合わせてごま塩をかけて食べるのが一番美味い。そしてこの玄米を美味く食べるコツはよく噛むということである。よく噛まなければ玄米食の醍醐味はわからない。そして玄米食は肉・魚と相性が良くないので肉・魚を食べることが少なくなる。まさに賢二の言った「一日に玄米四合と味噌と少しの野菜」で足りてしまうのである。また、ある人の試算では、肉食中心の食事をするのと玄米菜食をするのとでは耕地の必要面積が60対1くらいなのだそうであるから、これからの時代玄米菜食や雑穀主義というようなものを考慮に入れたらいかがなものかと思うのである。 さて、金子先生が玄米食であるかどうかは別にして、このような句を読むと金子先生は大地のリズム感というものを心得ておられるという気がしてくる。そしてそれは意識してなされているものだというのは587の観賞で取り上げた句や、この掲出句の次に出てくる句を読めば解る気がする。すなわち 飯を噛む北風吹けば更に噛む 等である。 |
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