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金子兜太全句集鑑賞651〜660( 句集後 113〜122)

651/kushuugo 113

句集後
「海程」418号/東国抄196

正月や形骸尽きても命生く
「海程」の発行
平成17年12月
(2005)86歳
鑑賞日
2006年
3/30

 〈死は虚妄である〉というメッセージを伝えたいという願望が私にはある。〈死は虚妄である〉、だから怖れないで死に見入るべきである。死に見入らなければ〈死は虚妄である〉ということは解らない。
 人間は身近な人が死ぬと葬式を執り行う。しかしこの葬式というものは死というものから目を逸らす仕掛けではないかと感じることがある。死というものが何も解っていない人達が忙しく忙しく右往左往して儀式を行うわけで、人それぞれが死に見入るという時間が無い。自分で見入る代りに、例えば仏式であれば死というものの何たるかの判断を僧侶に委ねてしまうわけである。そしてこの僧侶も死について何も解っていない、彼等はビジネスでやっているだけである。

 さて「形骸尽きても命生く」というのが結論であるが、この言葉の真意は殆ど誰にも解らないというのが現状である。


652/kushuugo 114

句集後
「海程」419号/年間拾遺

雑煮食ぶ暦年齢は虚なり
「海程」の発行
平成18年1月
(2006)87歳
鑑賞日
2006年
3/31

 〈食〉は[た]、〈暦年齢〉は[こよみねんれい]とルビ

 金子先生御年八十六歳《注・・・この鑑賞では年齢は年に合わせて簡単に計算している。実際は九月二十三日生れであるから八十六歳である》。まことに暦年齢は虚であると言わざるを得ない。気力充実して若々しい。詩人は嘘をつかない、「形骸尽きても命生き」そして「暦年齢は虚」である。詩とは表面的事実と普遍的事実の掛け橋の言葉である。私は昨日の句も今日の句も普遍的事実として受け取っている。 


653/kushuugo 115

句集後
「海程」419号/年間拾遺

みな貧しく鶴渡りしと祖父の話
「海程」の発行
平成18年1月
(2006)87歳
鑑賞日
2006年
4/2

 「みな」というのがいい。貧しいというのがいいのではない。できれば「みな豊かで」というのがいい。これは句について言っているのではなく、現在の世の中を見て言っているのである。
 句であるが、作者も祖父のこと、また祖父の話のその先にある懐しい時代に思いを馳せているのではなかろうか。兜太の祖父の句をいくつか思い出している

菊作る大き麦藁帽の祖父             『生長』
雪解風眼つむり聞けり祖父はなし         『生長』
祖父の忌の夜の泉ぞ掌に溢れ           『少年』
祖父恋し野を焼く子等と共に駈け         『少年』
一生怠けて暮した祖父の柿の秋           句集後

 みな、祖父への懐しさとその先に見える時代への郷愁のようなものを感じる。
 いま気がついたことであるが、初期の句集『生長』『少年』と句集後だけに祖父の句があるというのは、偶然かもしれないが面白いことではある。生の真っ只中に居るときは祖父のことなどは思い出さないのかもしれないなどと余分な事を考えた。


654/kushuugo 116

句集後
「海程」419号/年間拾遺

蝉宇宙すべて夕星となる気配
「海程」の発行
平成18年1月
(2006)87歳
鑑賞日
2006年
4/3

 〈夕星〉は[ゆうずつ]とルビ

 きれいな句である。「夕星」を[ゆうずつ]と読ませるというのがまた美しい。「海程」418号・419号から同じような雰囲気の句を並べてみる

陽がさせばまた蝉の声山の民
人々に蜩落ちてばたばたす
蝉宇宙山の向こうに北西風
峡ふかく冬の花火の音落ちる
人の子が見ている牛蛙泳ぐ
風倒木牧牛に人の子が走る

 すべて自然との深い交感の中にある山国の人々の生の一かけらである。夢見夢見られているようだ。


655/kushuugo 117

句集後
「海程」420号/東国抄197

冬紅葉新枯れやすししかし新
「海程」の発行
平成18年2月
(2006)87歳
鑑賞日
2006年
4/4

 〈新〉は[しん]とルビ

 句の内容と言葉の響きが「冬紅葉」にぴったりと合っている感じである。
 句の内容であるが、いわゆる伝統的な俳句から踏み出そうとしている「海程」という俳句集団を主宰している作者の感慨なのではなかろうか。
 古いものにしがみついているのは気が滅入る。やたらと新奇なものを求めていくのはふわふわして心もとない。創作ということに関わる人が感じるジレンマであるが、どちらかに割りきってしまうよりはこのジレンマを抱え持っている方が人間的な感じはするし、結局実りもあるだろう。どちらかに割りきれる人はノータリンである。この句はこのジレンマを〈新〉という側面から述べたものである。
 もう一度この句の美しさに言及すれば、「冬紅葉」が作者の人間的な心の揺れと交感して支えて美しいのである。
 どうだろうか、波郷の「霜柱俳句は切字響きけり」などははっきりとした明確な印象を読者に与えるが、人間的な情感の厚みという点ではこの兜太句の方が上ではなかろうか。


656/kushuugo 118

句集後
「海程」420号/東国抄197

去年今年国会議事堂に餓鬼ども
「海程」の発行
平成18年2月
(2006)87歳
鑑賞日
2006年
4/5

 〈餓鬼〉は[チルドレン]とルビ

 俳句としては粗っぽいが、内容に共感するので頂いた。
 子どもというものは自己愛の塊のようなものである。人が成長するに従ってこれが他者への愛に目覚めやがて普遍的なものへの愛へと向って行く。しかし殆どの政治家というものは自己愛で凝り固まっている。精神年齢五六歳というところであろうか。つまり餓鬼(チルドレン)である。今の政治家がそうなのか、あるいはそのような幼い精神の持ち主が政治家を目指すものなのか、私には後者に思えてならない。権力欲、これはまさに餓鬼(チルドレン)の持つ性質にほかならない。


657/kushuugo 119

句集後
「海程」423号/東国抄200

春の庭亡妻正座して在りぬ
「海程」の発行
平成18年6月
(2006)87歳
鑑賞日
2007年
5/17

 〈金子皆子逝く 七句〉と前書のある一句目

 かつて存在していたものが存在しなくなることはない。そうでなければ存在とは言わない。かつて愛していた愛が失われることはない。そうでなければ愛とは言わない。そういうことを作者は深い所で言いたいと思っている気がするのである。「在りぬ」という言葉に私はそれを感じるのである。また妻の側からすれば「正座して在りぬ」という事が、そのような厳粛な事実を伝えようとしている姿勢に見える。
 この句を幻視の句としてだけで片付けてしまうわけにはいかない。もし幻視だとしても、上のような事実がその背後にあるのだとしなければ、存在とは何ぞや、愛とは何ぞや、ということになってしまう。


658/kushuugo 120

句集後
「海程」423号/東国抄200

花を恋い楷を愛して春を眠る
「海程」の発行
平成18年6月
(2006)87歳
鑑賞日
2007年
5/18

 〈金子皆子逝く 七句〉と前書のある二句目

 死後観というのはいろいろある。天国に召される。浄土に旅する。最近では「千の風」になる等々・・。残された者の心が慰めを得る為のさまざまな詩的想像力の賜物である。そしてそのどれもに共通するのは「不滅だ」という思想である。「本質に死というものは無い」という思想である。詩人兜太は、皆子夫人の死について「花を恋い楷を愛して春を眠る」と表現した。一つの美しい想像である。


659/kushuugo 121

句集後
「海程」423号/東国抄200

蕾み梨花咲き妻を迎えおり
「海程」の発行
平成18年6月
(2006)87歳
鑑賞日
2007年
5/19

 〈金子皆子逝く 七句〉と前書のある三句目

 昨日の句よりもっとはっきりと一つの死後観が描き出されている。妻の霊、あるいは妻の精、あるいは妻の本質は自然の中に溶け込んで行くというのである。榠(かりん)や梨花があたかもそのことを祝うかのように蕾み花咲き、そして迎えている、というのである。一人の人間の死というのは自然にとってあるいは全体にとってあるいは存在にとって祝祭でもあり一つの祭典でもあるのだ。


660/kushuugo 122

句集後
「海程」423号/東国抄200

どれも妻の木くろもじ山茱萸山帽子
「海程」の発行
平成18年6月
(2006)87歳
鑑賞日
2007年
5/20

 〈金子皆子逝く 七句〉と前書のある四句目

 愛は不滅である、とよく言われる。あるものとの間に愛が起ったときに、その愛は失われることはないということである。愛は同化であり、そのものの本質と一体となるということである。さらに言えば、あらゆるものの本質は一つである。世界の本質、存在の本質は一つである。故に、真の愛が起ったときには世界の本質、存在の本質と一体となる。存在の本質は不滅であるゆえに、愛は不滅である。

どれも妻の木くろもじ山茱萸山帽子

 くろもじ山茱萸山帽子を愛した妻がくろもじ山茱萸山帽子の中に宿っている。・・・自然の中に存在の中に宿っている。

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