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金子兜太全句集鑑賞761〜770( 句集後 223〜232)

761/kushuugo 223

句集後
「海程」443号/東国抄220

アボリジニ跳び込んで抱きつくジュゴン
「海程」の発行
平成20年6月
(2008)89歳
鑑賞日
2008年
6/6

 アボリジニは先住民という意味であり、通常はオーストラリア原住民を指す。このジュゴンの句の連作は何処で書かれたのだろうか。オーストラリアでか、あるいはテレビの画面を見て書いたということもありうる。しかしそれはどうでもいい、詩においては同じことだからである。
 自然を征服しようとするのではなく、自然の呼吸と自らの呼吸が同じであるように大地とともに生きていた先住民というのは、かつて世界中のいたる所に居たのではないだろうか。そういう在り方の人達の代表者として、この句のアボリジニを捉えてもよさそうである。そして特別優れた感性の詩人である金子兜太がこのような人達に共感を憶えるというのはとてもよく解ることである。いわば自然の事物の中に存在する魂と魂の出会いであるともいえる。私にはこのアボリジニが兜太自身に思えてくるのであるが、いかがだろうか。
  兜太跳び込んで抱きつくジュゴン


762/kushuugo 224

句集後
「海程」443号/東国抄220

誕生も死も区切りではないジュゴン泳ぐ
「海程」の発行
平成20年6月
(2008)89歳
鑑賞日
2008年
6/7

 綿々と延々と続くこの連鎖。物質のレベルにおいても精神のレベルにおいても失われてしまうものはない。断ち切られてしまうものはない。表面的にはそう見えるかもしれない。しかしそれらは絶対の海の中での一つのエピソードに過ぎない。生きとし生けるありとある全てのものはこの絶対の海から生れそして海に死ぬ。この絶対の海から外れることもなく逃れることもない。大安心の海。大丈夫の海。悠々と悠々とジュゴンは泳ぐ。


763/kushuugo 225

句集後
「海程」443号/東国抄220

今日までジュゴン明日は虎ふぐのわれか
「海程」の発行
平成20年6月
(2008)89歳
鑑賞日
2008年
6/8

 いわゆる輪廻転生ということとも捉えられるし、喩えとしても捉えることができる。面白いのはこの「われ」である。この一連のジュゴンの句を作っているうちに、作者はすでにジュゴンになってしまっている。そして台詞のようにこの句を作っている。この意識の自在さが素敵である。そしてまたいかにも兜太らしいのが「明日は虎ふぐのわれか」と虎ふぐを持ち出してきたことである。この自分を滑稽化する態度。「まあ偉そうなことを言っても大したもんじゃありません。膨れっ面した虎ふぐのようなもんです。」というような態度。この偉ぶらない態度。ある種の気取りに陥ることを警戒しているような態度。この辺りの奥ゆかしさは俳諧者兜太の本領である。


764/kushuugo 226

句集後
「海程」444号/東国抄221

峠越え野に春眠をむさぼりぬ
「海程」の発行
平成20年7月
(2008)89歳
鑑賞日
2008年
7/1

 〈旅〉あるいは〈漂泊〉という言葉がやはり浮かんでくる。地理的な旅でもあり、また時間的な旅も感じる。つまり肉体における旅でもあり、また精神の旅でもある。私は〈旅〉の要素のある句、また〈大地〉の要素のある句が好きなのであるが、その意味でも兜太の句は好きなのであるが、この句にはその両方の要素がある。「むさぼりぬ」という言葉に充分に十全にたっぷりと精一杯生きてきた男の満足感のようなものを感じる。


765/kushuugo 227

句集後
「海程」444号/東国抄221

枕に亀虫朝から人は走るなり
「海程」の発行
平成20年7月
(2008)89歳
鑑賞日
2008年
7/2

 「朝から人は走るなり」は朝早くから人は活動を開始して走り回ることだ、というように受け取った。どことなく現代の人間のあわただしさを感じる。その対比として「枕に亀虫」が居る。芭蕉の時代の「蚤虱馬の尿する枕もと」ののんびり感と比べてみると、清潔ではあるが、現代はあわただしい時代である。


766/kushuugo 228

句集後
「海程」444号/東国抄221

花のあと魚影限りなく海に
「海程」の発行
平成20年7月
(2008)89歳
鑑賞日
2008年
7/3

 自然の豊かさ、存在の惜しみなさが描かれている。自然の生殖力も示唆されるように描かれているし、そしてそれらの命を支える存在の海という想念も感じる。
 心配性の私は近ごろの地球環境の悪化を気に病んでいる毎日なのであるが。どうだろうか、例えば地球環境の破壊が進んで、人類やまた多数の種が絶滅したとして、それは地球の側あるいは自然の側から見れば、ある種の浄化作用であると言えないこともないのではないだろうか。地球もかなりの痛手を負うかもしれないが、地球の癌といわれる人類が滅ぶことによって、地球は新たな再生を遂げるかもしれない。この句に引っかけて言えば、人類という花の狂宴が終り、また新たに無数の魚影がこの存在の海に出現する、というシナリオである。


767/kushuugo 229

句集後
「海程」444号/東国抄221

萌黄山喚くもありしよんぼりもあり
「海程」の発行
平成20年7月
(2008)89歳
鑑賞日
2008年
7/4

 これは萌黄山の描写を借りて、弟子達のことを書いたのではないか。弟子の譬えとして萌黄山は相応しいし、喚くもありしよんぼりもありというのが如何にもそれらしい。要するに造形的な作り方である。作者の中で弟子達の印象と萌黄山の印象がある時ぴたっと符合したのである。もっと言えば、肯定的に符合したのである。


768/kushuugo 230

句集後
「海程」444号/東国抄221

鳥の巣より高き人の巣留守勝ちに
「海程」の発行
平成20年7月
(2008)89歳
鑑賞日
2008年
7/5

 「鳥の巣より高き人の巣」という図は、山水などにあるような図や仙境のような図を感じる。「人の家」とか言わないで「人の巣」と「鳥の巣」と同列に置いたのは、鳥も人も同じ動物の仲間だという意識であるが、そう考えてくるとこの「鳥の巣より高き人の巣」というのは、同じ動物であっても一応人間は鳥よりも高い位置を与えられているということを言っているのかもしれない。つまり「人の巣」というのは本来人間が納まっているべき場所であるとか役割の象徴とも取れる。その「人の巣」が留守勝ちだというのであるが、昨今の人間はその動物としてのすなわち生命体としての位置や役割をしばしば忘れやすいということなのかもしれない。


769/kushuugo 231

句集後
「海程」444号/東国抄221

禁煙マークに頭ぶつけて八十八夜
「海程」の発行
平成20年7月
(2008)89歳
鑑賞日
2008年
7/6

 日常の中の俳味。人間というものの滑稽味。現代版弥次喜多道中の一場面という雰囲気。禁煙マークというどことなく薄っぺらな現代の文化と、八十八夜という味わい深い伝統的な言葉との対比も面白い。


770/kushuugo 232

句集後
「海程」444号/東国抄221

蛇も住む其角の庭のエスカルゴ
「海程」の発行
平成20年7月
(2008)89歳
鑑賞日
2008年
7/7

 其角に句あり「かたつぶり酒の肴に這せけり」 と前書き

 このエスカルゴが妙に艶めかしい。
 其角というと洒落者だとか伊達男というようなイメージがある。酒好きで女遊びにも長けていたというイメージもある。現世を愛し、しかしその愛し方が享楽的であるゆえに心の片隅に大きな不安を隠し持っているという人物。「かたつぶり酒の肴に這せけり」はその享楽的な部分が粋に描かれている。この兜太句においてはその現世的なものを根源的な性愛の問題としてえぐって書いているし、またその現世的な態度に潜む死の影もが暗示されている気がするのであるが、穿ち過ぎの鑑賞だろうか。蛇は男根の象徴であり、また心の不安の象徴であり、また死の使者の象徴でもある。エスカルゴは現世の享楽の象徴であり、女性器の象徴でもある。そういう穿ちである。


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