| 表紙へ | 前のページ | 次のページ |
金子兜太全句集鑑賞761〜770( 句集後 223〜232)
|
句集後 |
||
|
アボリジニ跳び込んで抱きつくジュゴン
|
「海程」の発行
平成20年6月 (2008)89歳 |
鑑賞日
2008年 6/6 |
|
アボリジニは先住民という意味であり、通常はオーストラリア原住民を指す。このジュゴンの句の連作は何処で書かれたのだろうか。オーストラリアでか、あるいはテレビの画面を見て書いたということもありうる。しかしそれはどうでもいい、詩においては同じことだからである。 |
||
|
句集後 |
||
|
誕生も死も区切りではないジュゴン泳ぐ
|
「海程」の発行
平成20年6月 (2008)89歳 |
鑑賞日
2008年 6/7 |
|
綿々と延々と続くこの連鎖。物質のレベルにおいても精神のレベルにおいても失われてしまうものはない。断ち切られてしまうものはない。表面的にはそう見えるかもしれない。しかしそれらは絶対の海の中での一つのエピソードに過ぎない。生きとし生けるありとある全てのものはこの絶対の海から生れそして海に死ぬ。この絶対の海から外れることもなく逃れることもない。大安心の海。大丈夫の海。悠々と悠々とジュゴンは泳ぐ。 |
||
|
句集後 |
||
|
今日までジュゴン明日は虎ふぐのわれか
|
「海程」の発行
平成20年6月 (2008)89歳 |
鑑賞日
2008年 6/8 |
|
いわゆる輪廻転生ということとも捉えられるし、喩えとしても捉えることができる。面白いのはこの「われ」である。この一連のジュゴンの句を作っているうちに、作者はすでにジュゴンになってしまっている。そして台詞のようにこの句を作っている。この意識の自在さが素敵である。そしてまたいかにも兜太らしいのが「明日は虎ふぐのわれか」と虎ふぐを持ち出してきたことである。この自分を滑稽化する態度。「まあ偉そうなことを言っても大したもんじゃありません。膨れっ面した虎ふぐのようなもんです。」というような態度。この偉ぶらない態度。ある種の気取りに陥ることを警戒しているような態度。この辺りの奥ゆかしさは俳諧者兜太の本領である。 |
||
|
句集後 |
||
|
峠越え野に春眠をむさぼりぬ
|
「海程」の発行
平成20年7月 (2008)89歳 |
鑑賞日
2008年 7/1 |
|
〈旅〉あるいは〈漂泊〉という言葉がやはり浮かんでくる。地理的な旅でもあり、また時間的な旅も感じる。つまり肉体における旅でもあり、また精神の旅でもある。私は〈旅〉の要素のある句、また〈大地〉の要素のある句が好きなのであるが、その意味でも兜太の句は好きなのであるが、この句にはその両方の要素がある。「むさぼりぬ」という言葉に充分に十全にたっぷりと精一杯生きてきた男の満足感のようなものを感じる。 |
||
|
句集後 |
||
|
枕に亀虫朝から人は走るなり
|
「海程」の発行
平成20年7月 (2008)89歳 |
鑑賞日
2008年 7/2 |
|
「朝から人は走るなり」は朝早くから人は活動を開始して走り回ることだ、というように受け取った。どことなく現代の人間のあわただしさを感じる。その対比として「枕に亀虫」が居る。芭蕉の時代の「蚤虱馬の尿する枕もと」ののんびり感と比べてみると、清潔ではあるが、現代はあわただしい時代である。 |
||
|
句集後 |
||
|
花のあと魚影限りなく海に
|
「海程」の発行
平成20年7月 (2008)89歳 |
鑑賞日
2008年 7/3 |
|
自然の豊かさ、存在の惜しみなさが描かれている。自然の生殖力も示唆されるように描かれているし、そしてそれらの命を支える存在の海という想念も感じる。 |
||
|
句集後 |
||
|
萌黄山喚くもありしよんぼりもあり
|
「海程」の発行
平成20年7月 (2008)89歳 |
鑑賞日
2008年 7/4 |
|
これは萌黄山の描写を借りて、弟子達のことを書いたのではないか。弟子の譬えとして萌黄山は相応しいし、喚くもありしよんぼりもありというのが如何にもそれらしい。要するに造形的な作り方である。作者の中で弟子達の印象と萌黄山の印象がある時ぴたっと符合したのである。もっと言えば、肯定的に符合したのである。 |
||
|
句集後 |
||
|
鳥の巣より高き人の巣留守勝ちに
|
「海程」の発行
平成20年7月 (2008)89歳 |
鑑賞日
2008年 7/5 |
|
「鳥の巣より高き人の巣」という図は、山水などにあるような図や仙境のような図を感じる。「人の家」とか言わないで「人の巣」と「鳥の巣」と同列に置いたのは、鳥も人も同じ動物の仲間だという意識であるが、そう考えてくるとこの「鳥の巣より高き人の巣」というのは、同じ動物であっても一応人間は鳥よりも高い位置を与えられているということを言っているのかもしれない。つまり「人の巣」というのは本来人間が納まっているべき場所であるとか役割の象徴とも取れる。その「人の巣」が留守勝ちだというのであるが、昨今の人間はその動物としてのすなわち生命体としての位置や役割をしばしば忘れやすいということなのかもしれない。 |
||
|
句集後 |
||
|
禁煙マークに頭ぶつけて八十八夜
|
「海程」の発行
平成20年7月 (2008)89歳 |
鑑賞日
2008年 7/6 |
|
日常の中の俳味。人間というものの滑稽味。現代版弥次喜多道中の一場面という雰囲気。禁煙マークというどことなく薄っぺらな現代の文化と、八十八夜という味わい深い伝統的な言葉との対比も面白い。 |
||
|
句集後 |
||
|
蛇も住む其角の庭のエスカルゴ
|
「海程」の発行
平成20年7月 (2008)89歳 |
鑑賞日
2008年 7/7 |
|
其角に句あり「かたつぶり酒の肴に這せけり」 と前書き このエスカルゴが妙に艶めかしい。 |
||
| 表紙へ | 前のページ | 次のページ |