| 表紙へ | 前のページ | 次のページ |
金子兜太全句集鑑賞801〜810( 句集後 263〜272)
|
句集後 |
||
|
海際ばかり明るき伊豆の菊膾
|
「海程」の発行
平成21年1月 (2009)90歳 |
鑑賞日
2009年 1/4 |
|
「菊膾」というのは菊の花びらの酢の物らしいが、私は見たことも食べたこともない。この句はいわば室内風景画の趣もあるから、菊膾の形を知らないと鑑賞は不完全なものになる。おそらく伊豆の旅館の部屋であろうか、光と陰のコントラストがある構図の中心に菊膾があるというような室内の風景である。光と陰の中に置かれた菊の花びらの黄色が印象的である。 |
||
|
句集後 |
||
|
狐狸走るこの山が暖かすぎて
|
「海程」の発行
平成21年1月 (2009)90歳 |
鑑賞日
2009年 1/5 |
|
じんわりと地球温暖化に触れた句ではないか。私がこの信州に引っ越してきてから約三十年になる。それが温暖化の故かどうか知らないが、動物達の様相も変ってきているように思う。一番顕著なのは猿や熊の出没が多くなったことである。しかしこれなどは温暖化ということでなく、奥山の木の実が植林などの所為で減ってしまったというような原因も考えられる。この一二年に気付いたのは、今までこの地域では見たこともなかったコウモリが私の家の蔵の天井に住み着いたことである。これは一応追っ払ったのであるが、このコウモリの出現の原因は何なのであろうか。やはり・・・? |
||
|
句集後 |
||
|
食べすぎて川風寒き寡住み
|
「海程」の発行
平成21年1月 (2009)90歳 |
鑑賞日
2009年 1/6 |
|
〈寡住〉は[やもめず]とルビ 現在の金子先生の日常の一コマであろうか。川風を感じるような川の近くに住んでおられるのだろうか。私は妻への依存性が高いから、寡暮らしはとても思考の範囲に入ってこないのであるが、いずれは妻が寡になるか私が寡になるかの状況になるのであろう。身につまされるものがある。もっとも私の場合は糖尿病という早死にの因子があるので私が寡になることはないであろうと勝手に思い込んでいるのではある。 |
||
|
句集後 |
||
|
寒露の地に頷く芭蕉いのち短か
|
「海程」の発行
平成21年1月 (2009)90歳 |
鑑賞日
2009年 1/7 |
|
この「芭蕉」は植物の芭蕉であるか、あるいは松尾芭蕉であるか。どちらにしろ結局は同じような情趣が流れる。そもそも松尾芭蕉の芭蕉は植物の芭蕉から来たのであるから、そこに共通の雰囲気があるのも確かである。「寒露の地に頷く芭蕉」、植物の場合なら風に葉が上下に揺れている風情であるし、松尾芭蕉なら何かを諾うように頷いている姿である。むしろそのダブルイメージで捉えるのが一番厚みがある。清々しい感じのいのち、そしてそのいのちを惜しむ気持ち。 |
||
|
句集後 |
||
|
床の間に大蜘蛛垂れて羽黒山なり
|
「海程」の発行
平成21年2月 (2009)90歳 |
鑑賞日
2009年 1/31 |
|
〈羽黒山〉は[はぐろ]とルビ 床の間に大蜘蛛が垂れている、さすが羽黒山だ、というのである。大蜘蛛の方からみれば、金子兜太がやって来た、ひとつお目にかかって挨拶でもしておこうか、ということかもしれないし、この大蜘蛛は羽黒権現そのものの仮の姿であるという連想もはたらく。 |
||
|
句集後 |
||
|
ふと立ちてあと影ばかり冬白波
|
「海程」の発行
平成21年2月 (2009)90歳 |
鑑賞日
2009年 2/2 |
|
現象はマーやー(幻影)に過ぎない、という世界の見え方がある。有りと有るものはただ一つの実体(無ともいう)である大海の波に過ぎないという把握がある。これは単なる哲学的なたわごとではなくて、実在的な体験からくる把握なのであるが、そういう“知”の近くに立っていると、あらゆるものが“存在”の影に過ぎない、と見える。 |
||
|
句集後 |
||
|
声美し旅の隣の姫始め
|
「海程」の発行
平成21年2月 (2009)90歳 |
鑑賞日
2009年 2/3 |
|
旅の隣の姫始めの声を美しいと感受した。そうかもしれない。あらゆる企みや打算や暴力性や人間の持つもろもろの負のものが、その瞬間には落ちているからである。いってみれば、鴬の初音を聞くような感じかもしれない。しかし、おそらく、この句を書く境地はかなり達観したものである。 |
||
|
句集後 |
||
|
夜の車窓を枯草ばかり群れて過ぐ
|
「海程」の発行
平成21年2月 (2009)90歳 |
鑑賞日
2009年 2/4 |
|
真の自己は全く動かない、というのが正しい見解ではないだろうか。生がやって来る、老いがやって来る、病がやって来る、死がやって来る、しかし真の自己はただそこに存在していてどこにも行ったり来たりしない。エックハルトが死の床にある時に弟子が「死んだらあたなはどこに行くのでしょうか」と質問したら、エックハルトは「どこにも行く必要はない」と答えたそうであるが、これが事実だとは思わないだろうか。やって来たり過ぎ去っていったりする相対的事象の中で私達は過ごしているから惑わされやすいが、真の自己は全く動かないというのが事実である。そういう事をこの句を眺めていて思った。 |
||
|
句集後 |
||
|
一二の灯やがて無数の寒灯し
|
「海程」の発行
平成21年2月 (2009)90歳 |
鑑賞日
2009年 2/5 |
|
〈寒灯〉は[かんとも]とルビ いわば情のある夜景が見えてくる。金子先生流に言えば、情(ふたりごころ)の夜景とでも言えようか。また、これは“知恵の灯”というような様相も帯びて感じられ、いわば理想家肌の人の心に宿る希望の灯というふうにも見える。 |
||
|
句集後 |
||
|
梟鳴く猫とび上るただそれだけ
|
「海程」の発行
平成21年2月 (2009)90歳 |
鑑賞日
2009年 2/6 |
|
梟鳴く猫とび上るただそれだけの静かな冬の夜。何の過不足もなく、あるがままであり、満ち足りているという心境のように思える。こういうふうな鑑賞は、多分私の作者像を句に重ね合わせている故である。何事をも肯定的に捉えてゆく人という印象をである。作った人が別の人なら、梟鳴く猫とび上るただそれだけ、ああつまらん、という印象になってしまう可能性もある。 |
||
| 表紙へ | 前のページ | 次のページ |