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金子兜太全句集鑑賞841〜850( 句集後 303〜312)

841/kushuugo 303

句集後
「海程」455号/東国抄232

青葉重なる蚊が殖えた猫の糞も
「海程」の発行
平成21年8月
(2009)90歳
鑑賞日
2009年
8/3

 これは、句そのものの味わいというよりは、句を書いている兜太の味わい、可笑しみである。明石家さんまや岡村たかしがもちろん芸でもあるが、その存在自体が可笑しみを醸し出すようなものかもしれない。


842/kushuugo 304

句集後
「海程」455号/東国抄232

光浴びて眼底検査夏つばき
「海程」の発行
平成21年8月
(2009)90歳
鑑賞日
2009年
8/4

 私は糖尿病持ちなので四ヶ月に一回眼底検査に行く。先ず瞳孔を開く薬を点眼され、瞳孔が開いてから、眩しい光の検査器具で眼を照らされて調べられるのである。その後も約二、三時間くらいは瞳孔が開いているので、外の光がとても眩しく感じる。眼底検査そのものも、その前後も外の光が普段以上に敏感に感じられるのである。この句、陽光の下に咲く夏つばきが想像される。

夏椿(沙羅の花)

http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/
BotanicalGarden/HTMLs/natutubaki.htmlより


843/kushuugo 305

句集後
「海程」455号/東国抄232

細雨頬へかの遺言へ姫柚子へ
「海程」の発行
平成21年8月
(2009)90歳
鑑賞日
2009年
8/5

 この「遺言」というのを、私は、作者自身の遺言と受け取る。具体的な書面としてのものというよりは、むしろ、日頃から言っている、後世に残すべき自分の言葉という方が、私には解りやすい。兜太の言ってきた言葉で、何が後世への一番大事な遺言だろうか。私などが今一番思い浮かぶのは、‘情(ふたりごころ)’という言葉である。もともと、遺言というものそのものが、情の表明のようなものでもあり、この句の雰囲気にも合っているから、そう思うのかもしれない。また、情ということは、兜太の要素であるアニミズムということにも通じてゆくし、社会性ということにも通じてゆく。「細雨」そして「頬」そして「姫柚子」がすべて情で繋がっているという感じがする。


844/kushuugo 306

句集後
「海程」455号/東国抄232

ひとり昼の会席食べて白雨かな
「海程」の発行
平成21年8月
(2009)90歳
鑑賞日
2009年
8/6

 白雨というのは情感のある言葉だ。中身は夕立やにわか雨であるが、言葉そのものの持つニュアンスは違う。言葉から受ける感じを説明しようとしても、しきれないし、蛇足になる可能性も大きい。とにかく、「ひとり昼の会席食べて」と「白雨かな」の微妙な情感の響き合いを感じている。


845/kushuugo 307

句集後
「海程」455号/東国抄232

笙の銘は交絵丸なり緑叢なり
「海程」の発行
平成21年8月
(2009)90歳
鑑賞日
2009年
9/9

 〈交絵丸〉は[まじりえまる]とルビ

 博物館か何かで「交絵丸」という銘の笙を見た。随分面白い銘だなあというなどという印象を持ちながら、外へ出てみると、そこには緑の叢が在った、というようなことかもしれない。この場合、古楽器やその名前から連想される昔の時代の雰囲気と生々しく新鮮な今の自然物との対比である。
 あるいは、笙という楽器の形、あるいはその音と「緑叢」の感じが響く、ということでもあるかもしれない。


846/kushuugo 308

句集後
「海程」456号/東国抄233

黒揚羽の訪れ多し牛蛙
「海程」の発行
平成21年10月
(2009)90歳
鑑賞日
2009年
12/17

 私の中では「牛蛙」は兜太自身の譬えによく使われると感じている。その切っ掛けは『東国抄』にある〈妻病む 十七句〉という連作の中にある十六句目の「三日月に牛蛙とは鬱なるかな」という句である。何故そう感じたのかということの説明はここでは省くが、兜太夫人皆子さんの句集『花恋』には次のような句もあることから、この私の感じも間違っていなかったと思った次第である。

夫牛蛙万事順調万事順調         『花恋』(皆子句集)

 もっとも兜太の場合、様々な動物に自分自身を投影して書くということは多いから、ことに牛蛙とは限らない。次は最新の句集『日常』の末尾の句である。

今日までのジュゴン明日は虎ふぐのわれか   『日常』


847/kushuugo 309

句集後
「海程」456号/東国抄233

まだ蟻にあわぬと思い夢寐にあり
「海程」の発行
平成21年10月
(2009)90歳
鑑賞日
2009年
12/18

 面白い夢だなあと思う。またいかにも夢で見そうなことだとも思う。しかし、これはすべての生きものにいのちを通わせることを願っているふうにも見える作者の生きる態度や思想の現れの夢であるようにも思える。また、仏陀が自分の過去生の記憶を辿る過程の状況であるというような大きな想念も湧いてくる。


848/kushuugo 310

句集後
「海程」456号/東国抄233

遊民を嫌う棟梁星迎
「海程」の発行
平成21年10月
(2009)90歳
鑑賞日
2009年
12/19

 「遊民を嫌う」というのはかなり一般性のある職人気質の一つである気がする。だから私にもこの棟梁の面影が目にうかび、その台詞が聞えてきそうな気がする。そして「星迎」ということで、私にはこの棟梁が屋根に乗って、いろいろ指図している映像さえ目にうかぶ。棟梁という一人の人物像を的確に描いているのではないだろうか。


849/kushuugo 311

句集後
「海程」456号/東国抄233

玉虫も髪切虫も夢の奢り
「海程」の発行
平成21年10月
(2009)90歳
鑑賞日
2009年
12/20

 玉虫も髪切虫もとてもきれいな虫である。こんなきれいな虫は夢が奢ってくれたのだ、あるいはこんなきれいな虫に出会えたのは夢が奢ってくれたのだ、というようなことではないだろうか。さて、作者の立ち位置は何かと考えているうちに、ブッシュマンの「われわれを夢見ている夢がある」という言葉が頭に浮かんできた。


850/kushuugo 312

句集後
「海程」456号/東国抄233

夏山を人影移り生臭し
「海程」の発行
平成21年10月
(2009)90歳
鑑賞日
2009年
12/21

 「生臭し」が否定的な意味で使われているのだろうか。そう取るのが一般的な感じはあるが、それでは詰まらないものもある。一番はいいのは、否定的だとか肯定的だとか詮索しないで、「生臭し」そのままの言葉のニュアンスを受け止めることであろう。そうすると、ぞうぞうと茂る夏山の感じなどが自ずと伝わってくる。


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