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金子兜太全句集鑑賞補遺81〜90
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句集『少年』二部 |
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罌栗よりあらわ少年を死に強いた時期
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昭和26〜28
(1951〜1953) 32歳〜34歳 |
鑑賞日
2006年 8月4日 |
| 〈飯森山 一句〉と前書
戊辰戦争の際に白虎隊の少年兵が飯森山(飯盛山)で自刃した事実を詠んだ句である。 |
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句集『少年』二部 |
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洪水の夜の河流と逆に歩む
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昭和26〜28
(1951〜1953) 32歳〜34歳 |
鑑賞日
2006年 8月5日 |
| 句としての魅力はどうかは抜きにして金子兜太の人生の流れを窺い知るのに興味のある句である。反骨精神というか反逆精神というか、しかもそういう自分のあり方を眺め諾い楽しんでいる雰囲気がある。まさにニーチェの言うライオンであり、あるいは一匹狼という状態なのであろうか。後年、俳句に専心するようになって、衆とともに歩む姿勢を獲得した状態を考えるとその前の過程としての態度がよく表現されている。人間の意識の歩みを〈無意識の内に衆に埋没している状態〉〈衆に反逆している状態〉〈意識的に衆とともに歩もうとしている状態〉〈衆と自己の区別がなく全一になった状態〉というように捉えるならば二番目の過程にある句と考えられるが、どうであろうか。 | ||
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句集『少年』二部 |
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霧深し対岸は富み灯を揃える
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昭和26〜28
(1951〜1953) 32歳〜34歳 |
鑑賞日
2006年 8月7日 |
| これもこの時期の作者の心理状態の一端を窺える句である。自分の道を歩もうとする者が孤独のうちに時に感じる感慨である。この一句前に本鑑賞で取り上げた(「朝日のもとで読め」という詩を木枯しに)という句があるが、この両句は対称的な句であり、しかし一匹のライオンあるいはオオカミとしての心理状態の抑揚が表現の魅力を伴ってよく出ている両句である。 | ||
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句集『少年』二部 |
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ぎしぎし踏む尺余の雪も貧しい路地
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昭和26〜28
(1951〜1953) 32歳〜34歳 |
鑑賞日
2006年 8月8日 |
| この頃、飛ばしてしまう句がなく殆どの句を取り上げているような具合である。最近金子先生はチカダ賞というのを受賞した。その時の言葉に「・・これからも確かな日常を書き取ってゆきたい・・」というような意味のことがあったと記憶するが、そうこの確かな日常を書き取っている感じがあり、とても好きな句群で落せないのである。見習いたい句作の態度である。 | ||
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句集『少年』二部 |
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河氷り橋脚汚れ吾等生きる
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昭和26〜28
(1951〜1953) 32歳〜34歳 |
鑑賞日
2006年 8月9日 |
| 身の周りの状況がどうであれ“生きる”という姿勢が震えるほど好ましく共感する。このところ取り上げている
洪水の夜の河流と逆に歩む というようなどちらかというと重く沈んだしかし確かに生きようとする意識が感じられる句の中に 「朝日のもとで読め」という詩を木枯しに というような高らかに生を歌った句が交じるのであるが、ほんとうにこの『少年』という句集は充実している。 |
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句集『少年』二部 |
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歌いまくる炭子の唄に銀漢伸ぶ
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昭和26〜28
(1951〜1953) 32歳〜34歳 |
鑑賞日
2006年 8月10日 |
| 〈南会津村にて 五句〉と前書のある五句目 〈炭子〉は[やきご]とルビ 人間の営みに自然が呼応して美しい。 |
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句集『少年』二部 |
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蜉蝣むらがる橋燈に来て影を得る
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昭和26〜28
(1951〜1953) 32歳〜34歳 |
鑑賞日
2006年 8月11日 |
| 〈蜉蝣〉はカゲロウであり、フユウとも読む。字数からいってフユウと読んでおく。昆虫の名前であるが人生のはかないことの譬えにも使われる言葉である。その蜉蝣の群がっている橋燈に来て自分の影を認識したというのであるが、実に陰影の深い印象の句である。人間存在のあるいは人間の意識の本質を言っているような感じさえする。真に自己を認識して生きるということと無常観ということの精妙な兼ね合いがあるような気がするのである。“悟りの一句”であると言いたいくらいの気持ちもある。 | ||
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句集『少年』二部 |
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いどみ噛る深夜の林檎意思死なず
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昭和26〜28
(1951〜1953) 32歳〜34歳 |
鑑賞日
2006年 8月12日 |
| 生(なま)な表現であるが生(せい)への意思が強く感じられて好ましい。このような態度が積み重なっていってあの〈生への意思の結晶〉とも言える「弯曲し火傷し爆心地のマラソン」のような句がやがて出てくるのだなあと感銘している。また後年の狼の句の連作のところで「兜太のトーテムは狼である」と書いたが、そんな事も再確認される一句である。トーテムとは生まれつきにその人が持っている性向の象徴であるからである。 それにしてもこの『少年』という句集は凄い。掘り起こしてゆくと続々と感銘を受ける句が出てくるのである。 |
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句集『少年』二部 |
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子は既に忘れたコツプに冬月凝る
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昭和26〜28
(1951〜1953) 32歳〜34歳 |
鑑賞日
2006年 8月13日 |
| 面白い句である。日常の中のよくありそうな何でもない事柄の中の詩である。「子は既に忘れてしまったコップ」はよくありそうな何でもない事柄であり、「コップに冬月凝る」は詩である。この組み合わせが面白いのである。意識の冴えた詩人としての日常を思わざるを得ない。 | ||
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句集『少年』二部 |
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娼窟に縄とびの縄ちらちらす
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昭和29〜30
(1954〜1955) 35歳〜36歳 |
鑑賞日
2006年 8月14日 |
| 実際に娼窟に縄跳びの縄がちらちらと見えたのかもしれないし、縄跳びの縄に何かを象徴させているのかもしれない。幼き日の遊びである縄跳び、その縄跳びの縄の象徴するものとは何か。純なもの無垢なものへ憧れる心の切れ端であると私には思われる。「奥のほそ道」に出てくる遊女、あるいは遠くマグダラのマリア、いわゆる娼婦はそういう質を持っていることがあるのである。娼窟というのは社会の最底辺の一つの形であるが、最底辺にいる人間の心を察する気持ちが無ければ人間を描く作家とは言えない。その点、芭蕉も兜太も人間を描く作家であると言える。 『生長』に「夏蜜柑娼婦風船ふくらます」というのもあった。 |
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